常に曖昧に。
今日はもうエントリ上げるつもりはなかったんだけど、
ちとタイムリーなネタに出くわしてしまったので。
ついさっき、アクセス解析を見ていて気付いたひとコマ。
偶然とは思えない、解析ログ数と検索ワードの隣り合わせ。
お通夜は今日です。
一昨日以降、正観さん訃報関連の検索キーワードで
訪れて頂いた方がちらほらいらっしゃるようで、
そのリンク元を辿って検索エンジンを流し見てみたんですよ。
本当にたくさんの人々が、正観さんを悼み、惜しみ、
そして、正観さんが常々語っていたとおりの教えを、
「死は不幸ではない」「幸も不幸も存在しない」
ということを悟っていました。
なにより、誰しもが
「正観さん、ありがとう」と。
福岡のSKPショップ・くれいん舎さんの日記によると、
「正観さんは、おだやかな、まるでほほえんでいるようなお顔で、横たわっておられました」
とのことでした。
生き様と死に様。
別々のようでいて、二つは全く同じもの。
それを、正観さんは最期まで、
肩肘張って示そうとはせずに、しかしどこまでも示しきってくれました。
何度でも、伝えたくなります。
ありがとうございます、と。
一喜一憂、プラマイゼロ。
これじゃ無限の喜びには程遠く。尚遠く。
山のあな、あな、あな(ry
閑話休題。
じゃあ、
一喜一憂を手放して、一喜一憂しなくなると、どうなりますか?
零喜零憂?
それって単なる無感動、無感情、無味乾燥?
それじゃやっぱりプラマイゼロじゃない?
普通はそう考えるわけで。
これまで世間は、みんなにそう教え込んできたわけで。
だから誰もが敬遠するんだよね。
でも、それは実は上っ面だけの誤解、フェイクで。
面白いことにね。
一旦まっさらの、本当の零喜零憂にたどり着いた時から、
その後は、零喜零憂にいる間中、
喜だけが勝手に、一つずつ増えていくようになるんだ。
零喜零憂が一喜零憂になり、二喜零憂になり、
気がつくと、百喜零憂になっているんだ。
面白い法則なんだよね。
どうしてそうなるのか、
なぜそんな法則が実際に成り立っているのか、
その原理は理屈じゃよくわからない。
でも、そんな不可思議な原理を、
ある人は「無為」って名づけたんだ。
だからね、気をつけたほうがいいよ。
一喜一憂しか知らない人は、
百喜零憂してる人、無為の人を見ても、
愚か者だと思って軽んじたり、
そんなのありえないって疑って否定しちゃったりすることがあるから。
まあ、仕方ないといえば仕方ないけれども。
だって、無為を心得た人は、懐があまりにも大きすぎて、
傍目にバカなんだか利口なんだか、よくわからないものだからね。
宇宙空間の具体的な広さなんて、誰にも実感できないのと同じでね。