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ヨル・タル・シル

 えっと、初めにちゃんと明言しておきます。

 今回の記事は、特にたわしの偏った主観や自意識、旺盛な批判精神成分をいつもよりも多量に含んでいます。
 なのでそういうのが嫌な人はぜひともスルー推奨。

 そんなの全く大丈夫っつー大人な物好きさんだけ続きをどうぞ。



 でわ。

 唐突ですが。

 大まかに、「にんげん」ってのは、
 次の四つの「ル」で成り立ってます。

 ・フィジカル ―― 物質性、肉体的な健全さ(頑強さとは違います)。
 ・メンタル ―― 心理。いわゆる知情意(知性・情緒(感性)・意志)の働き。
 ・ソーシャル ―― 社会性、外部への敬意や受容性。
 ・スピリチュアル ―― 霊性・精神性。知情意の働きを統合し、バランスを保つ働き。


 いわゆるジャンル的な「スピリチュアル(精神世界)」ってのは、
 この四つのうちの「スピリチュアル(霊性)」に着目して、
 そこへの自覚や関心が薄いために他とのバランスが取れず不健全になっちゃってるから、
 霊性への理解を通じて、この世に生きる「にんげん」としての、
 「『四ル』を総合した」人間性のバランスを健全化しましょうよ、
 ってコンセプトも根底にあると思うんです。


 要するに偏らずに人生を生き切りましょう、ってこと。


 本来的な「宗教」というものも、その根本スタンスはこれと全く同じはずです。


 だけど。

 どんな理念も、忘れ去られたり、
 あるいは曲解されたりすることは往々にしてあるもので。


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ストーリー・オブ・ウォーターフィールドサウスノース(15)

 前回の続き。



 快刀乱麻の活躍で事件を解決に導いた南北くん。

 評判を聞きつけ、彼の元にはいよいよ、大勢の人々が集い始めました。

 その内訳は、大別して二種類。



 一つ目は、南北くんの鋭い観相を求める人々。


(-◎∀◎)「南北先生の観相術は、単に当たるだけやおまへんでぇ! もう死ぬしかないほどの凶相を、小兵が巨魁を転ばすみたいにコロっと良運に変える、生きる道を示してくだはる、まさに『天の祖法』なんや! 現にワテなんか――」


 という、喜兵衛の心底熱のこもったプロデュースも追い風。
 南北くんの住まう喜兵衛の別邸は、来る日も来る日も観相依頼の人々でごったがえすようになりました。

 その中には、単に観相を求めるように見せかけて、


( `∀´)oO(こいつが噂の水野南北かいな。どの程度の実力か知らへんが、どうせ誇大広告に決まってまんで)


 と、観相学論議をふっかけてくる同業者、なんてのも時折混じっていました。
 しかし、ぶつけられる問い一つ一つに、明快で的確、時には目から鱗の落ちる解答を示し、
 極道仕込みの鋭い舌鋒も加わって、南北くんは挑戦者をことごとく返り討ちにしてゆきました。

 それもそのはず。
 当時日本の観相学の本流は、いずれも中国などから渡ってきた諸々の相学書を翻訳しただけのものばかり。
 しかし、国が変われば人も変わり、風土も気候も風習も、習慣も考え方も違えば、必然的に人相の現れ方も異なってきます。

 つまり、『「相」そのものが違う』にも関わらず、
 日本の風土、日本人に合わされていない、「日本独自」ではない観相学だったのです。

 一方、南北くんのそれは違います。

 人間の一部分だけではない、頭のてっぺんから爪先までに留まらず、
 立ち姿座り姿歩き姿、正面から背後から横っ面、声や息遣い……
 「にんげん」という、立体的なその人「そのもの」を、ありのままに「観」た上で、導き出されるものなのです。

 海常師匠譲りの、千人、万人の観相を通じた、まさに血みどろの実学に基づいた、実証の塊。
 南北くんレベルからすれば、上っ面な知識をなぞっただけの、まさに木を見て森を見ないような同業者など、足元にも及びませんでした。

 ともあれ。そうこうしている内に、


(;`∀´)「こらアカン! 水野南北、こいつぁホンモノの中のホンモノや!」


 と、同業者の間でも、その評判は確固たるものに。

 いつしか人々は、南北くんを『当代随一の観相家』と評すようになり、
 その類まれなる観相の技を指して、こう呼び表わしました。


 『黙って座れば、ぴたりと当たる』



 さて。
 次の、二つ目。

 それは、南北くんに教えを乞い、更なる観相の高みへと登らんとする人々、です。


(  ̄д ̄)「俺も昔、こんな失敗をしたことがある」


 観相の傍ら、南北くんは屋敷にひしめき合って座る弟子たちのために、日々講義を開いていました。


(  ̄д ̄)「ある人に、このままだとお前さんは仕事の出張中に転んで大怪我をするから気をつけろ、って観相したんだ。それで確かにその人は転んで大怪我したんだけど、それは出張先なんかじゃなく、自分ちの軒先だった。後で知ったんだが、その人の職は出張なんて考えられないものだったのさ。転んで怪我する、だけ言ってれば大当たりだったのに、欲をかいて余計なもんくっつけちまったから、目が曇っちまったってわけだな」

( ・_・)( ・_・)( ・_・)「ふむふむ」

(  ̄д ̄)「そもそも観相ってのは、要は『天と地と、宇宙と自分とを一体化して、我を離れた心で行う』ものなんだ。その人の上っ面だけを見るんじゃなくて、その人という宇宙を『観る』ものなんだ。
 だから自分の才能で相手の相を観てやる、なんてのは、ただの傲慢以前に観相にすらなってない、エセ観相家のやるこった。
 事実、『百発百中させて世間を驚かそう』なんて意識が奥底にあると、知らず知らず心が浮ついちまって、絶対に大失敗をやらかす。そんな状態で「あるがまま」の相を見極めるなんてお釈迦さんでも土台無理な話なんだからな。どんな観相をする時も例外なく、このことを心に刻んどかないとダメだぜ」

( ・o・)( ・o・)( ・o・)「なーるほどー」


 南北くんの講義は、極めて明快でした。
 が、それは弁舌技術によるものだけではありません。

 むしろそれ以上に。
 格式ばった門派・流派にありがちな、「これが秘法! これぞ奥義!」などと勿体ぶるようなことが一切なかったのが、非常に大きな要因でした。

 自ら血と汗を流して学び、積み上げた相学の技と知識全てを、まるで惜しげもなく弟子たちへと開けっぴろげにしたのです。

 そこには、観相を通じて自らを育ててくれた無数の人々への恩返し、という意味合いはもちろん、
 かつて三日三晩、不眠不休で自らの観相学を包み隠さず叩き込んでくれた海常師匠の影響があったのも、想像に難くはありません。

 南北くんは、弟子たちにこうも言いました。


(  ̄д ̄)「観相を学ぶなら、まずは師匠に学ぶんだ。師匠の教えをしっかり会得し、自分のものにして、それから本を読む。そうすれば、既に『師は己の内にある』状態だから、上っ面の知識に惑わされることはないし、問題にもならないぜ。それから後はひたすら観相、観相、観相、千人万人を通じた実地の観相、絶え間ない観察を通じて、自分自身で天地と宇宙の理を明らかにしていくしかないんだからさ。そもそも、本といくらにらめっこしてたところで、『人相』を見なきゃ『観相』にならねーじゃん」


 事実、南北くん自身が無学の身。
 にもかかわらず、海常師匠の教えと導きに触れ、徹底的な実学を通じて、今こうしてあるのです。
 迫真の講義は、居合わせた弟子たちの心を――何度となく、強く打ちました。


( ・o・)「ところで、先生」

(  ̄д ̄)「ん、何だ?」

( ・o・)「先生って、背は低いし顔つきも悪党だし、どう見てもこれ以上ない最悪の相ですよね」

(  ̄д ̄)「あけすけに物言う奴だなおい。全然否定できねーどころか思いっきり事実だけどさ」

( ・o・)「なのに、先生はこうして素晴らしい先生として私たちの前に立ってます。これはどういうことなんですか?」

(  ̄д ̄)「そいつはまさに、水野南北っつー人間の、外っ面だけにとらわれて見た結果ってこった。誰しもそうだが、俺は森羅万象の中に生じて、天地宇宙と渾然となって生きてるものなんだ。今ここで、まさにそうあるんだ。だから俺たちは根本的に、乏しいことも、老いることも、死ぬことも知らない存在ってことなんだ。それをわかっていると、誰しもが知らない内に、内側に良相を備えるようになるのさ。
 『無相の相を相として、行くも帰るも余所ならず』って禅でも言ってるだろ。
 いいか、『相は無相を以って最高の相とする』んだぜ。
 本当の『良相』ってやつは、形が無いし、どんな形にもなるんだ。風や水のようにな。
 だからそいつは、見よう見ようという心根じゃ、観ることはできないんだ。
 さっきも少し言ったが、観相する時には、その「ヒト」を見るんじゃなくて、彼を取り巻く万物、天地、宇宙の声を静かに受け入れるこった。そうすれば、勝手に彼という「にんげん」が浮かび上がってくるからな」

( ・o・)( ・o・)( ・o・)「なーるほどー」


 ところで。
 その内、弟子たちの間から、
「こんな意義のある講義を、後世に書き残さないのは勿体なさすぎる!」
 という声が上がり始めます。

 しかし、講義に使う邸宅の一室では、弟子たちがすし詰めで、とても筆を走らせるスペースなどありませんでした。
 そこで弟子の内、八助をはじめとした何人かが代表して「書記係」となって南北くんの講義を書きまとめることとなりました。

 そうして生まれたのが、

 『南北相法』

 と題され、後世の観相学に多大な影響を与えることとなる書、
 その前編にあたる全五巻である、とされています。



 ……とまあ、観相家として大成功街道まっしぐらの南北くん。

 実はこの頃、恋女房を迎えます。
 おかげさまでプライベートでも充実した時期を迎えた、

 ――かと思いきや、しかしそれは最初の間だけ。

 ラブラブだった初めての妻は、半月も経たないうちにだらけて一切家事もしなくなり、堪えきれず注意すれば逆切れして殴りかかってくる……という具合に、怠惰で粗暴な本性を露にし始めたため、


(; ̄д ̄)「これじゃ腰据えて観相なんてできやしねー!」


 堪らず南北くん、スイートホームの皮をかぶったキリングハウスから飛んで逃げ出したりしました。


 一説には、南北くんは生涯にわたり、なんと十八人の女性を妻にしたと言われています。
 一度にではなく、結婚しては別れ、また別の女性に惚れては結婚し、を繰り返した結果です。

 しかも滑稽なのは、その全員が全員、ワガママ極まっていたり自堕落だったり乱暴者だったり性根が曲がっていたり……もれなく筋金入りの悪女揃いだった、という徹底した女難っぷり。

 当代随一とされるほどの観相の腕をもってすれば、そんな女性たちの相を結婚前に見極めるなど本来造作もない……のですが、そこは女好きで惚れっぽい性分の南北くん。
 色恋にのぼせ上がって目がくらみ、祝言上げたはいいけれど、そこで冷静になってからようやく妻の「相」に気付く、というテンプレート。
 相手の悪相どおりの言動に、ハッと我に返った時には既に遅し。後の祭り。その繰り返し。

 それでも懲りない自分を皮肉ってか、同じように悪妻で悩む弟子との、こんなやりとりもあったほど。


(;-_-)「先生。先生ほどのお方が、どうしてご自身の妻とされる女性の相を予め見抜けないのですか」

(; ̄д ̄)「ハップル宇宙望遠鏡でも、1センチ先で飛ぶハエは見えないものさ……」

(;-_-)「哀愁振りまきながら開き直らないでくださいよ。ぶっちゃけ私は神様に今のどうしようもないDV妻を可愛くて気立ての良い素敵な嫁とトレードしてもらって毎日毎晩キャッキャウフフしたいんです……」

(  ̄д ̄)「正直だなおい。ま、けどさ。結婚したから幸せ、金が名誉が名声があるから幸せ、何かを得たから幸せってわけじゃねーだろ。実際いろいろ観相しててもさ、高学歴で一流企業に入ってベンツと都内の一戸建て買って何不自由ない暮らししてても、心労やら不安やら心配にまみれて、世の中に恨み言ばっかのたまう救いようもなく不幸な奴だっている。逆に貧乏で五体不満足でも、幸せな人はいるんだ。
 あのさ、幸せってのはもっと、足元より更に近いとこにあるもんさ。
 だからなんつーか、見方を変えようぜ。伴侶との良縁に恵まれないってのは古今東西、一芸を極めるために天がくれた良相でもあるんだから……まあ、お互いめげずにいこうや。酒でもおごるぜ? っつーかDV被害受けてんならまず警察行くか別れろよ。世間体だの生活設計だのぐだぐた考えてそこに甘んじてる方が不幸だぞ?」


 という言葉のとおりに。
 南北くんは己の観相の道を、その頂上と向けて更に邁進し続けていくのですが、それはこの後のお話にて。

 ……ときどき、色ボケしながら。


(; ̄д ̄)「うっさいよ色ボケゆーな!!」


 つづく。



 次回、ナンボククエスト第十六話、
「金は天下の回りもの、縁(¥)も天下を廻るもの」
 をお楽しみに。あんまり嘘でもない。

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