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どこにもいないけどいる

 この世に「私」はいない。



 この世の全ては、「宇宙の現象」。

 この手の、腕の、足の、心臓の、

 この体くんの刻むあらゆる動作も、宇宙の現象。


 この視覚の、聴覚の、心の、感情の、

 この心くんの感じるあらゆる情報も、宇宙の現象。



 「私」は、ただそれを観察するのみ。

 この世ではない、少なくとも物質ではないどこかから。



 そして、いつだって、

 この世では体くんと心くんが、勝手にお仕事してくれている。



 香ばしい米の香りにホッとしてくれて、

 しっかりと箸と茶碗を持ってくれて、

 美味しく噛み締めた食べ物を消化吸収してくれて、

 肺も心臓も血流も、年がら年中動き続けてくれて。



 ほとんどの人が、体くんや心くんこそが「私」だと思い込んでる。

 けど、本当はそうじゃないことを、「私」は知っている。

 ただ、それを忘れているだけ。



 昔は、体くんや心くんに、ああしろこうしろと命令してばかりいた。

 それどころか、「私」の力で体くんや心くんを完全に動かして、生かして、成り立たせているのだと思い上がっていた。


 だけど、他人が自分の思いどおりに動くことはほとんどないのと同じ。

 「私」ではない体くんや心くんは、必ずしも命令どおりに動いてくれるわけじゃない。


 内臓ひとつ、神経ひとつ、呼吸ひとつ、「私」の力じゃ働かない。

 腕一本、指一本、どんなに命令しても動かないときは動かせない。

 心だって、思考だって、「私」を離れて勝手に暴走するなんてのも珍しくない。


 そんな単純なことも理解せず、「私」は体くんや心くんに罵声を浴びせ、鞭をうち、痛めつけてしまっていた。

 そんなんじゃ、体くんや心くんだって、厭にもなるよね。



 今はもう、ただ見守るだけ、観察するだけの方が多くなった。

 せいぜい、「できればここはこうしてくれたらありがたいな」と、ちょっとだけお願いするくらい。


 ああしろこうしろと、下手に「私」がこと細かく口出しするより、

 体くんと心くんが自主的に動いてくれた方がよほどいい仕事してくれるから。


 ありがとう。ありがとう。



 ……え?

 じゃあ、「私」ってのは一体何だって?



 そんなの説明できるわけないじゃん。

 説明したくないんじゃなくて、説明不能。明示不能。


 だって、知りようがないから。

 「私について」を知ることはできても、「私」を知ることはできなさそうだから。

 この世の理屈で表せる形では、ね。



 でも、そうだねぇ。それでも強いて言えば。


 想像してみて。

 今の自分から視覚を除いて、聴覚を除いて、触覚嗅覚味覚その他全身体感覚を除いて、

 思考を除いて、感情を除いて、信念も衝動も反射も何もかも、完全に除いて除ききって、


 そうして残ったものが、『私』だよ。




<私は、私が何も知らないことを知っている>
   ソクラテス

 個人的に、
「私は、私が『私を』何も知らないことを知っている」
 とした方が、一般的に言われる『無知の知』より根本的な意味に近いと思うんだ。
「私を知る」のと「私について知る」のとは全く違う、ってのを踏まえた上でだけど。

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