常に曖昧に。
前回のエントリの「悟っている」への反響が予想外だったのでw
ちょっと今回は臨時&即興でエントリ立ててみました。
ま、たわしのスタンス・解釈はこんな感じ、って程度で受け止めてもらえれば幸い。
あ、そうそうその前に。
前回のエントリを上げた後、ユウさん、そしていい気分.comのユキさんが、
(少なくとも個人的に)前回と密接に関連する内容のエントリを上げておられたことに気付きました。
よろしければ、ぜひ目を通してみてください。
キーワードは「私を知る」「自分に還る」「統合」。
では、本題。
~・~・~・~・~・~
言葉、とりわけ名詞には、それが持つ意味に無数のレイヤーがあります。
「愛」は、時にただの感情のことであったり、時に無償の奉仕のことであったり。
「神」は、時に崇拝対象としての偶像のことであったり、時に絶対権力者的な存在のことであったり。
「悟り」も、時に日常の細やかな気付きのことであったり、時にいわゆる無我の境地などのことであったり。
その解釈によって、同じ単語でも意味する本質は十人十色千差万別、加えて臨機応変です。
でも、究極的なレイヤー(レイヤーという表現も語弊はあるけど敢えて)においては、
「愛」「神」「悟り」……他にも「仏」とか「宇宙」とか「真理」とか色々ありますが、
それら全て、一切のズレなく同じものを指しています。
それが何なのかは、あまがっぱさんのコメントが非常に良い示唆を含んでいるので、そちらを解釈していただくとして。
「悟っている人は、存在しない」
よく言われるこの言葉は、紛れもなく究極的な真理を示しています。
「究極的な意味での悟り」に至ると、「自分」というものが存在していなかったことに気付きます。
「自分」が存在していないのであれば、「悟った人」も当然存在していないのですから。
(だから2行上の文章も、本来的確な表現ではありません。自分がいないのに誰が気付くのか?)
「悟っている人は、存在しない」
でも同時に、言葉である以上、これは真理そのものではありません。
以前ありがとう仙人さんのブログから引用させていただいた言葉を再度借りれば、
『言葉はすべて二元的だ。反対の言葉がなければ、言葉を持つことは出来ない』んです。
ありがとう仙人さんは続けて、
「言葉にした以上、必ず、反対の説明が成り立つのです。」
とも語られました。(これはもう、自分的に完璧に納得と同意があるので、やっぱりそのまま引用)
究極的なレイヤーにある「それ」そのものを、明確に言葉で表現することはできません。絶対に。
なぜなら、「それ」は言葉という概念の外にあり、また言葉ともゼロ距離にあるものだから。
言葉は、言葉の示せる範囲の外側にも、また言葉それ自身にも、手が届かないんです。
「言葉」を、「理屈」や「思考」に置き換えても同じ。
ちょっと変な例えに思うかもしれませんが。
たとえば、白くて固くて表面に無数の窪みがあって丸い物体があるとして、
「それは白い」
「いやそれは固い」
「いやその表面には無数の窪みがある」
「いやそれは丸い」
と個々のエッセンスを指差すことはできても、
「それはゴルフボールだ」
と一発で言い表すことは、ゴルフボールでは可能でも、「それ」の場合は不可能です。
「群盲象を評す」という成句そのままです。
だけど逆に、言葉が真理を指し示す方向指示器になるのも事実です。
「悟っている人は存在しない」
「悟りではない人も存在しない」
「誰もが始めから悟っている」
方向指示器として、てんでバラバラの方向を指している上記の言葉、
これら全部、同じ意味です。
そして、これらが指す「悟り」とは、全て究極的なレイヤーに属します。
示す先にあるものは同じでも、各方向指示器の「立ち位置」「現在座標」「立脚点」が違うから、
同じ「悟り」を示していても、全然別の「方角」を向くことになるんです。
ある場所に置けば正しい方向を示す方向指示器も、別のある場所に置けば見当違いの方向を示します。
『体験を持ち運ぶな』『月指す指は切り捨てよ』とは、それを戒めた言葉です。
そもそも、原理的に『言葉は「それ」たりえない』と同時に、
究極的には『言葉も「それ」でできている』んです。
これこそがまさに、言葉の持つ二元性というものです。
一方、前回のエントリで川´ー`)が告げた「悟っている」とは、
『究極的なレイヤーに属する意味では(必ずしも)ありません』。
直後に使われた「預流果」。仏教用語です。
これが含まれる、悟りに至る段階を表した「四向四果」には、さらにその上として、
「一来向」→「一来果」→「不還向」→「不還果」→「阿羅漢向」→「阿羅漢果」と6つもあります。
ちなみに「預流果」の前が「預流向」。
更に阿羅漢の上には、須弥山という(いわゆる)悟りを開いた者達が住む山があるとされ、
その中には更に、このような階層があります。
如来(知恵と慈悲を持っている。大日如来、阿弥陀如来など)
↑
菩薩(慈悲を持っている。観世音菩薩、地蔵菩薩など)
↑
明王(魔を調伏する力を持っている。不動明王、愛染明王など)
↑
天(一芸に秀でている。弁財天、帝釈天など)
つまり、手っ取り早くこの構造を用いて説明すれば、
「預流果」の段階では、「究極的な意味での悟り」を得て(自覚して)はいないんです。
「それ」が何なのか、には一応気付いていますが。
(余談ですが、この概念でいくと、
「一芸に精魂込めて注力し、またそれに秀でている人は、「天」として悟っている」わけです。
たわしもこれは、本当のことだと思います。
武道、スポーツ、手工芸、芸術芸能、家事、商売、何だっていいんです。
無心に打ち込むのは、それだけである意味立派な一つの「悟り」です。)
ご覧の通り、現状たわしは「リセット」あるいは「ループ」しています。
内面的に、ゼロからとは言えないけれど、1からのスタートを切りました。
実際そうなのかは説明も証明もできないけど、なんとなくそんなつもり(ぇー
だから、かつて「気付き」に変わったはずの過ち、「無明」にも、
泥水にヘッドスライディングするように再び遠慮なく飛び込んでます。
たとえば、
>でも、これはかつてあれだけ強い自覚と認識があったことなのに、
>なんで思い出し直すような状況を作らなきゃいけないのさ。
前回冒頭でこう書いた、これまさしく、現在の否定と過去への執着です。
どういうことか、というとつまり。
今のたわしは、「今この瞬間」への安住から敢えて(無意識に?)離れ、
一旦脱ぎ捨てた「気付き」の意図的な再発見・再認識と、それに基づく「在り方」のリビルド、
大仰に言えば生まれ変わりの最中にいます。
……いや、実際は言葉でいうほどカッコよくはないですよ?ww
だから、究極的にも、表層的・あるいは中間的なレイヤーに属する「意味」にも、
遠慮なく「解釈(誤解)しうる」言葉を使っています。ユーザーフレンドリーそっちのけ。
阿部さんの言葉をそのまま借りると、
「真実は、理解の段階によって変化します。」
あの「悟っている」は、
その段階を、誤解の恐れは承知の上で、意図的に「落として」表現したものでもあるんです。
ものすごくお節介な忠告なんですが、
特にこと精神世界系のブログなどでは、この「語り手」が意図する「段階」「レイヤー」を読み違えると、
その語らんとする意味が全く伝わらないばかりか、見当違いの方向に矢印の向いた案内板と同じく、迷走を誘発します。
それが悪いことかどうかは別問題として。
コトノハさんや敦さんが自評する「悟ってない」とは、
おそらくこの「究極的ではない」レイヤーを指していると思います。
そのレイヤーに「悟り」の意味を置いて言えば、
正直言うと、たわしもうずらさん同様、どおでもええ派ですw
そして同時に、「究極的なレイヤー」に意味を置くと、
あまがっぱさんのコメントそのまんまで、
>「そりゃ…旦那、無理な話ですぜ」
となるわけです。全くの大正解。
だから、同じ「悟り」「愛」「神」という単語でも、
使い手が意図するレイヤーが違えば、話が全くかみ合いません。
当然この場合、仮に討論したって不毛です。前提から噛みあってないんだもの。
宗教戦争の発生原理ってまさにここなんだよね、とミサカはミサカはちょっとぼやいてみたり。(誰だ
えっと、そんなわけで。
個人的かつ「一面的な」結論を申しあげますとですね。
↑これ重要
「悟っている人・いない人はいたりいなかったりするけれど、究極的にはみんな悟りそのものだよー」
はい、んじゃみんな、風呂入れる人は気持ちよく風呂入って、
そうじゃない人もごろんと横になってぐっすり寝よー!w
(_ _ )
ヽノ) おやすみなさい
ll
⊂ ⊂ヽ、 /)/)
c、 `っ( ヽ
( v)c、 `っ
V''V ( v) / ̄`⊃
V''V | ⊃
( v) ハ,,ハ
V''V (・ω・ )
⊂⊂ ヽ
> )
(/(/
<⌒/ヽ-、___
/<_/____/
全ては皆のおかげさま。
全て、完全に自分以外、他の皆の力を頂いて、
『生存』――つまり、生かして頂いて、存在せしめてもらえている。
それを、忘れてた。
それが、先日の最も大きな原因です。
こんな大切で、根本的な原則を、なんで忘れてたんだろ。
やることがあって、その手段として思考のスロットルを開放し続けていたせいか、
自分の力で生きているのだという観念が知らぬ間にまぎれこんで、増殖していたみたい。
だからって、どうして忘れてしまうような状況を引き寄せたんだろ。
川´ー`)「思い出すためじゃよ」
いや、それは以前から何度も聞いたよ。
思い出すために忘れる、って。
でも、これはかつてあれだけ強い自覚と認識があったことなのに、
なんで思い出し直すような状況を作らなきゃいけないのさ。
川´ー`)「ならば質問じゃ。この世の絶対的な法則とは何じゃ」
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