常に曖昧に。
昨日の昼のこと。
久々に鶏ムネ肉のステーキがつっと食ったら、
しばらくたってから異様に体が野菜を欲しがる欲しがるw
だもんで晩飯は玄米と納豆と漬物に、生のニンジンそのまま1本。
ぽりぽりかじって、よく噛む……野菜うめぇwww
何の変哲もない普通のニンジンなんですけどね。
「今、感じる味」だけを感じきると、全ての食べ物がもれなく最高に美味しいとわかります。
タレをかけないところてんも美味しいよ?(ウフ
そんなわけで、動物占いではこぞってペガサスとか月からきたウサギなんて不思議系な結果になるたわしです。こん○○ぱ。
私の愛馬は凶暴だぴょん(何
みょんな前置きはさておき。
アクセスログを見てたら、
「正観さん 告別式 行ってきました」
って検索ワードで訪れた方がいらっしゃったようで、
思わずポチっと覗いてみました。
すると。
実際に参列された方のレポートを発見。
■あさやん通信さん:正観さんの葬儀
こちらに、正観さんの辞世の句が紹介されていました。
転載させていただきます。
《わが形見
高き青空 掃いた雲
星の夜空に 陽に月に》
見た瞬間、
「あ、確か良寛さんの辞世の句も同様の趣だったはず」
と感じて、早速ぐぐるさんwに調べてもらいました。
《形見とて 何か残さむ
春は花
山ほととぎす 秋はもみじ葉》
思えば正観さんも、良寛さんの諸々のエピソードを度々紹介してくださいました。
正観さんの本名は正寛さん。
「良寛さんのような人になってほしい」
という意味で親に名づけられた、と語られていました。
こうして残った辞世の句を目にするにつけ、
「現代の良寛さん」だったんだなぁ、とつくづく感じます。
この場を借りて、
レポートしてくださったあさやんさんにも深く感謝いたします。
本当にありがとうございます。
……そういえば。
「小林正観 訃報 死因」
「小林正観はなぜ死んだか」
「小林正観さんなんで死んだの」
なんて検索キーワードで来た方々もいたみたい^^;
その問いに答えるとしたら、たわしなら迷わずこう返します。
「正観さんが生まれたからですよ」
……こーゆーこと言うとすぐ理屈っぽいとか怒鳴りだす誰かには、その奥にあるニュアンスなんて汲み取れますまいて。(さりげに黒モード(ぇー
『散る桜 残る桜も 散る桜』
――良寛和尚
前回の続き。
満を持し、伊勢神宮へと訪れた南北くん。
自らが掲げる『天の相法』を極める目的の旅でもありましたが、
それ以上にむしろ、命とは、生とは、運命とはそもそも何なのか、
そして、それらを真に司るものとは、一体何であるのか、
今こそはっきりと見極めたい、という強い思いに突き動かされていました。
豊受大神を祀る外宮に参拝し、進路を内宮へ。
五十鈴川の畔で足を止め、
その先の内宮正殿に祀られし天照皇大神へと思いをはせた、南北くん。
ここならば、と、川の水で禊を済ませ、断食と瞑想の荒行に入りました。
(  ̄д ̄)「掛けまくも畏き天照皇大神……あまねく照らす太陽の、宇宙の神。
そうだ……人は皆、天からの火を受けて生まれ、天の火を身にとどめて生きている。
……だから『火止(ひと)』と呼ぶんだ。
それは天より与えられた、天の理によって全て生かされている、ってことに他ならない……。
人に限らず、草木の一本、虫や魚や鳥や獣の一匹、全て漏らさず、だ」
観相に関わって数十年。
膨大に積み重ねられてきた、運命哲学とでも言うべきものを、
その数々を、南北くんは一人静かに、改めて振り返り、織り上げ続けました。
それらが指し示し、交わる先にあるはずの……「何か」を求めて。
(  ̄д ̄)「だから、天の相法とはすなわち、天の理に従い、天の理を観ることだ。
そして、天には天気、天の気があるように、人にも人の気、心の気がある。
心の気こそが、『にんげん』として直接的に現れる、全ての相の原型になってる。
……そこまでは問題ない。もっと掘り下げるんだ」
来る日も来る日も、幾度となく繰り返す自問自答。
過去、現在、未来……あるいは空間。
自らを構成する全てを感じながら、南北くんは己の内へと深く、深く潜り続けます。
(  ̄д ̄)「そうだ……考えてみれば、天の気、太陽の気を健やかに受けるときは、人の気もまた陽で、健やかに勢いを得る。
つまり人間も一つの小宇宙なんだな……天の気の勢いが陽光に乗って現れるのと同じで、人の気の勢いもまた相に現れる……心の趨勢によって顔の相も変わる。この変化を掴むのが、観相の基本だ」
自らが辿ってきた道を、今まさにもう一度、一歩一歩踏みしめ直すかのように。
(  ̄д ̄)「天の相法……吉凶を見分けるだけでなく、その人の『命の運ばれ方』を正し、
より天の理に添って『生きる』べく、俺がやってきたこと……」
観相を通じ、無数の人々に運命改善の道を施してきた南北くんでしたが、
しかし実はまだ、僅かな迷いがありました。
いや、それは迷いと言うよりも、
『解ってはいるが、確証がない』状態と言った方が正しいかもしれません。
そうして、荒行開始から数週間が経過した、ある日。
(  ̄д ̄)「……? なんだ、別の参拝客の団体か」
川辺で座り込む南北くんの傍を、お伊勢参りの集団が通りがかりました。
――その時でした。
すれ違いざま、先頭を歩く観光ガイドの言葉が、
断食の空腹で遠ざかっていたはずの南北くんの聴覚に……なぜか、はっきりと届いたのです。
川´ー`)「えー、先ほど参拝いたしました外宮に祀られております豊受大神は、別名を御食津(みけつ)神と申しまして、全ての食物を司り――」
Σ(  ̄Д ̄)「!!!!!!!!!!!!!!!!」
強烈なシンクロでした。
無知無学を自認する南北くん。
ここに来る直前に参拝した神様こそ、
実は食の一切を統べる神だということを一切知らなかったのです。
(; ̄д ̄)「間違って……なかったんだ……!!」
全身を雷に打たれたかのごとき、鮮烈なインスピレーション。
南北くんは、声を震わせて叫びました。
(  ̄Д ̄)「天の相法は、食の相法……!
やっぱり食なんだ……そうだ、すなわち、『食は命なり』!!」
それは、『食』を中心に据えることによって『運命』の車輪を脱する観相。
おそらくは世界史上初めて、どの観相家も成し得なかった画期的な道が、
はっきりと拓かれた瞬間でした――。
荒行上がりのボロボロの風体で、急いで伊勢から帰宅した南北くん。
インスピレーションに任せるがまま、何かにとりつかれたかのように執筆へと全力を傾け始めました。
(; ̄д ̄)「今を逃せば、この頭の中に湧き出してくる文章が永遠に消えちまうかもしれない……書かなきゃ、書かなきゃ……!」
そんな、一種恐れにも似た衝動を、一切抑えることなく。
こうして出来上がった書、
『南北相法修身録』
の中で、南北くんは次のように語っています。
(  ̄д ̄)「人倫の大本は『食』だ。
誰でもちょいと考えりゃわかるはずさ。人は皆、飲み食いした物を元にしてできているだろ。
食のあるところに命あり、命あるところにまた、食がある。
つまり命とは食によって起こり、食によって生きるものだ。
どんな良薬を駆使したって、食べ物がなきゃ身体を保てないし、とても生き続けられない。
だから、真の良薬ってのは、『食』そのものなんだ。
ほら、『食』って字は、『人に良いもの』って書くじゃないか」
(  ̄д ̄)「すると、命を運ぶもの、つまり運命もまた、『食』によるってことになる。
かつての俺は、観相をするにあたって、この『食』を観ていなかった。
そのせいで、長寿福相の人が落ちぶれてあっさり早死にしたり、
逆に短命悪相の人が長生きして繁栄したりすることもあって、百発百中とはいかなかった。
だけど、運命が食によって決まることを悟ってからは、本当に外れがなくなった。
それはその人の食生活を聞いてから、観相するようになったがために他ならないんだ。
よって、食を観ることが、天の相法の奥義なんだ」
(  ̄д ̄)「肉・酒・砂糖などの美食や、大食に明け暮れる奴は、
それらがみんな醜い心身となって、結果的に一生を棒に振る。
そもそも、大食やら酒やら肉やら油なんてのは消化に内臓の力をたくさん使うだろ。
砂糖だって、消化にいいとか言われているけど、実は体全体に与える負荷はバカみたいにデカイんだ。
だからそんなのを無闇に摂りすぎれば、誰だって必要以上に眠くなって、起きていても心身がだるいまんまになる。
大事な五臓六腑を馬車馬か奴隷のようにこき使ってんだから、当然の帰結だよな。
必然的に、限られた人生の時間を大量かつ無駄に浪費しちまうわけだから、
世間的に立派なことを成し遂げるだなんて、夢のまた夢に成り下がっちまう。
簡単な道理だろ?」
(  ̄д ̄)「『天は無禄の人を生ぜず』って言って、誰しも必ず、天からの恵み、天禄を受けている。
けど、その一生分の天禄の量には分限、限りがあるんだ。人それぞれ多い少ないはあるがな。
で、身の程を超えた大食や美食は、まさしくこの天禄を余計に食って費やすってことに他ならない。
それを繰り返せば、要は『天への借金』がかさんでいくから、
何らかの形で返済しないでいると、本人自身に不要な苦労や災いが降りかかるのさ。
それでも返しきれなけりゃ、その子やら孫やらまで返済義務を負わされることになる」
(  ̄д ̄)「いいか、吉凶を左右する大本は、食生活だ。
どんな良相でも、分限以上の酒肉や美食に明け暮れる奴は、不運に終わる。
そんな食生活を続けりゃ、体中が細胞レベルで緩んで腐った気を吐き始める。必ず心も荒んでくるのさ。
気とか天禄なんて言わなくても、収入が少ないのに外食を繰り返せば貧窮するだろ。それと全く同じだよ。
どんな悪相でも、食をしっかり慎めば、立派な上に裕福な境遇で栄えるのも夢じゃない。
ただし、いくら粗食っつっても、大食いで食事のリズムも定まらない奴にそんな可能性はないぜ」
(  ̄д ̄)「そうさ、大食だって戒めるべきさ。
単純にエンゲル係数高けりゃ家計が火の車ってのも美食と同じだし、
観相の視点から言えば、そういう奴は一生身持ちが悪くて生活が安定しない。
食事のリズムや内容が全然定まらない奴も一緒だよ。
そういうのは、一生苦労や心労が絶えないまま、
生活の中で安心するということができずに終わる可能性が高いものさ」
(  ̄д ̄)「とまあ、脅すような暗い言い方ばっかりしちまったけど、
全部逆方向から解釈してくれればいい。
つまり、食を慎めば、天禄を浪費せず、逆に天への貯金となって、いずれ何らかの大きな幸福の形で帰ってくる。
健康長寿かもしれない。金銭かもしれない。
社会的成功かもしれない。伴侶や子宝かもしれない。
あるいは、絶対的な安息の境地かもしれない。
本人に帰らなくても、子々孫々に繁栄をもたらすことさえあるだろうさ。
要は『食が正しければ、心正しくなり、体も正しくなる』
よっておのずから、『運ばれてくる命、運命もまた、正しくなる』ってこった。
わかったか?
災いと幸せとの分れ道が、日々の飲食にはあるんだ。
毎日の営みだからこそ、絶対にバカにしちゃいけないぜ。
悪い運命を幸福な運命に変える鍵もまた、食にこそあるんだ!」
南北くんは一貫して、飲食の重要性を説きます。
人として最も基本的で、最も重要な営みである、『食べる』ということ。
あまりに単純すぎて多くの人が気にも留めなかった原始的な行為こそが、
まさしく運命を左右する根幹であると喝破したこの書は、世間に強いインパクトを与えました。
……かくして。
当代髄一どころか、事実上、史上最も偉大な観相家の一人として円熟の域に達した南北くん。
やがてその彼が、ついに、
「名実共に」日本一の座へと就く瞬間が、すぐそこまで迫っていました。
つづく。
次回、ナンボククエスト最終話、
「東西南北中央不敗・マスターナンボク、暁に死す」
さらば南北。君の事は忘れない。嘘です(嘘かよ!?
前回の続き。
観相家としての南北くんの勢いは、留まるところを知りません。
(  ̄д ̄)「目ってのはな、清浄なる心の窓にして、精神つまり神の精の通い路にして、また人体でも特に感情の集う器官だ。
眠ってるときには何処にあるかも判らない人間の『心』は、目が覚めれば文字通り、目に再び留まる。
つまり目は相を観るときにも重要な『窓』になるのさ。
たとえば、勢いのある人間の目は輝きが強いし、俺ら観相者の目を正面から見据えてくるが、逆に悩み多く気力の弱った人間の目は暗く淀んで、相手の目を正視できない。
これは俺の極道としての経験からも言えるが、目の定まりが正しくまっすぐなら、そいつは心も正直でまっすぐだ。けど目が定まらず、落ち着きなく常にきょろきょろしてる奴は、心に邪なものがある。盗人なんかがいい例だな。
それに、精神集中して何かを見つめる時は、ほとんど瞬きもしないだろ。精神、つまり文字通り神の精、神の気を目の一点に集めるからなんだよ。逆に瞬きが多いときは、精神力が薄く心が浮ついてたりするもんだ。
つまり、その人の性格、根性、心の清濁、それにその時々の感情は、ことごとく目に表れる。
いいか、人の顔でまず観るべきは目だ。目で顔の相の七割は決まるぜ。
もちろん、我を離れて『観』なけりゃ、手前勝手なフィルターをかけて大失敗しちまうのは忘れるなよ」
(・o・ )(・o・ )(・o・ )「はーい」
喜兵衛別邸における日々の講義を経て、弟子たちも観相家として目の覚めるような成長を遂げてゆきました。
その弟子たちが、やはり観相を通じて、さらに多くの人々の運命を改善してゆく……南北くんの理想は、南北くん一人だけでは決して成しえない大きさで、しかし確かに実現の根を広げて続けていました。
また平行して、南北くんは件の『南北相法』の後編にあたる全五巻を完成させます。
講義の内容を弟子たちがまとめた前編と違い、
後編は南北くん自身が執筆、長年の実学で積み上げた観相における自らの見識を、
人体各所のみならず、暦、土地、方角など、微に入り細に入り様々に分別し、
それら一つ一つに対して事細かに解説する形で明確に記す形を取っています。
それが、享和二年(1802)のこと。
ところで。
この『南北相法』に記された、天明八年(1788)当時の南北くんの弟子は、
地元大坂だけでもなんと160名以上。
他にも東北から九州まで全国各地、中には地元では右に出るもののいないとされた、
当時の名だたる観相家たちが多数、南北くんの弟子として教えを乞うたとされています。
最終的に、弟子名簿へと記された名前は実に583人。
その内には更に数十人、百人以上の弟子を抱えた人物も複数存在するため、
孫弟子まで加えると、水野南北という観相家の門人は、ゆうに千人を軽く超えることになります。
ですが。
(; ̄д ̄)「しっかし、さすがにこれじゃ講義するにも手狭だわなぁ……」
(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )
(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )
(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )
(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )
(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(・_・ )(-_- )Zzz..
(=_=`)「決して狭い屋敷ではないでござるのにな……門弟の中にも、窮屈すぎて講義に身が入らぬという者も出始めてござる」
(◎∀◎-)「ほなら先生、この際どーんと、もっと広いとこにお屋敷でも建てたらどないでっしゃろか? せっかくやから、門弟全員で寝食を共にできるくらいデッカイやつを」
(  ̄д ̄)「そっか。確かにそれが一番手っ取り早くて確実な手段だな。よし決めた」
提案に、善は急げと南北くん。
大勢の弟子たちが集える拠点となり得るだけの土地と屋敷を買い求めました。
実際、そのころの南北くんには、それだけの財力が備わっていました。
毎日の見料、つまり観相料金による収益だけでなく、
「悪相を良運へと導く」、南北くんの『天の相法』によって心身を救われた人が、、
謝礼として寄付を申し出るケースも珍しくなかったのです。
南北くん自身、日々粗食で食費も大してかさみませんし、
生来が無頼の徒で酒好き女好き博打好きではありますが、
それでも自ら観相の道を極めるべく程々に慎んでいるため、結局お金は貯まっていく一方です。
割合大きめな個人的出費と言えば、せいぜい、所用や見聞のための旅費程度。
来る日も来る日も、ひとつずつ、ひとつずつ、
ただ目の前の観相に心を集中し続けてきた結果、
いつのまにかこれほどのものが南北くんの元へと流れ込んできていたのです。
(  ̄д ̄)「しっかし、どうしたもんかねこの銭の使い道。溜め込んでもあの世にゃ持ってけねーしさ。
かといって弟子連中を養うための蔵を建ててもまだまだ余るし、なんか使い道は……そうだ!」
思いついたのはやはり、南北くんのできることであり、南北くんにしかできないことでした。
あの『南北相法』を、判り易いように要約したハンドブック、
とでも呼ぶべき『南北相法早引』を執筆し、
観相師を志す全国の若者たちのために無償で配って周ることにしたのです。
その数、千冊。
併せて、昔のように諸国の街頭に立って、
やはり無料で千人分の観相を行うことにもしました。
名目は、師匠・水野海常の追善供養として。
(゚┏ω┓゚ )「……え? ワシ死んだの? いつのまに?」
(  ̄д ̄)「ほらほらおじいちゃん、棺桶には去年入ったでしょ」
(゚┏ω┓゚ )「そうじゃったかのう。葬式はまだかのう……ってボケ老人ちゃうわい!」
(  ̄Д ̄)「おお、師匠のノリツッコミ初めて見た!」
霊界チャンネル遮断閑話休題。
かくして、敢えて弟子たちの手伝いも断り、
かつての修行時代同様、深傘と坊主姿に身を包んだ南北くんは、
無料の千人観相と施本を、ついにたった一人でやり遂げました。
この奉仕行脚を終えた南北くんの胸の内には、ある一つの想いがありました。
(  ̄Д ̄)「不思議なもんだよなぁ。若い頃は自分の事だけしか考えずに、挙句死にかけたこの俺が、だよ。
今じゃ何だか、いつのまにか世のため人のためになるようなことを、自然にやってるみたいだ。
久々に旅をして改めて感じたよ……金もそうだが、物も、縁も、お天道様も、みんな廻り廻ってる。
人だって、その体も、心も、同じように見えても、二度と全く同じ形、同じ『相』を持つことはない。
観相一筋でやってきたからこそ、今になってそれがよくわかる……」
陽は昇り、やがて沈み、そしてまた昇る。
誰しもが産声をあげてこの世に現れ、そしていずれ必ず息を引き取る。
それら「絶対不変にして普遍の変化」のかたち――『相』を、
南北くんは数十年、最早数え切れないほど間近で観て、触れ続けてきました。
まさしく森羅万象、天地自然の『相』、そのものの中で。
否、そのものとして。
(  ̄Д ̄)「それを確か、お釈迦さんは諸行無常って言ったんだっけな。
じゃあその『無常』なこの『命』ってのは、その命を運ぶ『運命』ってのは、
その運命をなぞって『生きる』ってのは……そもそも一体、何なんだろうな……?」
観相家としてでなく、ただ一個の、生命体として。
観相への追究という枠を超えた、命としての問いかけに突き動かされ……南北くんはついに決心しました。
(  ̄Д ̄)「……よっし、修行するか!」
文化九年(1812)の春。
時に水野南北、55歳。
人生の集大成とも言うべき修行の旅へと、その一歩を踏み出しました。
目指すは――伊勢神宮。
つづく。
次回、ナンボククエスト第十七話。
「極意開眼・食は命なり」
をお楽しみに。嘘じゃありません。
えっと、初めにちゃんと明言しておきます。
今回の記事は、特にたわしの偏った主観や自意識、旺盛な批判精神成分をいつもよりも多量に含んでいます。
なのでそういうのが嫌な人はぜひともスルー推奨。
そんなの全く大丈夫っつー大人な物好きさんだけ続きをどうぞ。
でわ。
唐突ですが。
大まかに、「にんげん」ってのは、
次の四つの「ル」で成り立ってます。
・フィジカル ―― 物質性、肉体的な健全さ(頑強さとは違います)。
・メンタル ―― 心理。いわゆる知情意(知性・情緒(感性)・意志)の働き。
・ソーシャル ―― 社会性、外部への敬意や受容性。
・スピリチュアル ―― 霊性・精神性。知情意の働きを統合し、バランスを保つ働き。
いわゆるジャンル的な「スピリチュアル(精神世界)」ってのは、
この四つのうちの「スピリチュアル(霊性)」に着目して、
そこへの自覚や関心が薄いために他とのバランスが取れず不健全になっちゃってるから、
霊性への理解を通じて、この世に生きる「にんげん」としての、
「『四ル』を総合した」人間性のバランスを健全化しましょうよ、
ってコンセプトも根底にあると思うんです。
要するに偏らずに人生を生き切りましょう、ってこと。
本来的な「宗教」というものも、その根本スタンスはこれと全く同じはずです。
だけど。
どんな理念も、忘れ去られたり、
あるいは曲解されたりすることは往々にしてあるもので。
続きを読む
前回の続き。
快刀乱麻の活躍で事件を解決に導いた南北くん。
評判を聞きつけ、彼の元にはいよいよ、大勢の人々が集い始めました。
その内訳は、大別して二種類。
一つ目は、南北くんの鋭い観相を求める人々。
(-◎∀◎)「南北先生の観相術は、単に当たるだけやおまへんでぇ! もう死ぬしかないほどの凶相を、小兵が巨魁を転ばすみたいにコロっと良運に変える、生きる道を示してくだはる、まさに『天の祖法』なんや! 現にワテなんか――」
という、喜兵衛の心底熱のこもったプロデュースも追い風。
南北くんの住まう喜兵衛の別邸は、来る日も来る日も観相依頼の人々でごったがえすようになりました。
その中には、単に観相を求めるように見せかけて、
( `∀´)oO(こいつが噂の水野南北かいな。どの程度の実力か知らへんが、どうせ誇大広告に決まってまんで)
と、観相学論議をふっかけてくる同業者、なんてのも時折混じっていました。
しかし、ぶつけられる問い一つ一つに、明快で的確、時には目から鱗の落ちる解答を示し、
極道仕込みの鋭い舌鋒も加わって、南北くんは挑戦者をことごとく返り討ちにしてゆきました。
それもそのはず。
当時日本の観相学の本流は、いずれも中国などから渡ってきた諸々の相学書を翻訳しただけのものばかり。
しかし、国が変われば人も変わり、風土も気候も風習も、習慣も考え方も違えば、必然的に人相の現れ方も異なってきます。
つまり、『「相」そのものが違う』にも関わらず、
日本の風土、日本人に合わされていない、「日本独自」ではない観相学だったのです。
一方、南北くんのそれは違います。
人間の一部分だけではない、頭のてっぺんから爪先までに留まらず、
立ち姿座り姿歩き姿、正面から背後から横っ面、声や息遣い……
「にんげん」という、立体的なその人「そのもの」を、ありのままに「観」た上で、導き出されるものなのです。
海常師匠譲りの、千人、万人の観相を通じた、まさに血みどろの実学に基づいた、実証の塊。
南北くんレベルからすれば、上っ面な知識をなぞっただけの、まさに木を見て森を見ないような同業者など、足元にも及びませんでした。
ともあれ。そうこうしている内に、
(;`∀´)「こらアカン! 水野南北、こいつぁホンモノの中のホンモノや!」
と、同業者の間でも、その評判は確固たるものに。
いつしか人々は、南北くんを『当代随一の観相家』と評すようになり、
その類まれなる観相の技を指して、こう呼び表わしました。
『黙って座れば、ぴたりと当たる』
さて。
次の、二つ目。
それは、南北くんに教えを乞い、更なる観相の高みへと登らんとする人々、です。
(  ̄д ̄)「俺も昔、こんな失敗をしたことがある」
観相の傍ら、南北くんは屋敷にひしめき合って座る弟子たちのために、日々講義を開いていました。
(  ̄д ̄)「ある人に、このままだとお前さんは仕事の出張中に転んで大怪我をするから気をつけろ、って観相したんだ。それで確かにその人は転んで大怪我したんだけど、それは出張先なんかじゃなく、自分ちの軒先だった。後で知ったんだが、その人の職は出張なんて考えられないものだったのさ。転んで怪我する、だけ言ってれば大当たりだったのに、欲をかいて余計なもんくっつけちまったから、目が曇っちまったってわけだな」
( ・_・)( ・_・)( ・_・)「ふむふむ」
(  ̄д ̄)「そもそも観相ってのは、要は『天と地と、宇宙と自分とを一体化して、我を離れた心で行う』ものなんだ。その人の上っ面だけを見るんじゃなくて、その人という宇宙を『観る』ものなんだ。
だから自分の才能で相手の相を観てやる、なんてのは、ただの傲慢以前に観相にすらなってない、エセ観相家のやるこった。
事実、『百発百中させて世間を驚かそう』なんて意識が奥底にあると、知らず知らず心が浮ついちまって、絶対に大失敗をやらかす。そんな状態で「あるがまま」の相を見極めるなんてお釈迦さんでも土台無理な話なんだからな。どんな観相をする時も例外なく、このことを心に刻んどかないとダメだぜ」
( ・o・)( ・o・)( ・o・)「なーるほどー」
南北くんの講義は、極めて明快でした。
が、それは弁舌技術によるものだけではありません。
むしろそれ以上に。
格式ばった門派・流派にありがちな、「これが秘法! これぞ奥義!」などと勿体ぶるようなことが一切なかったのが、非常に大きな要因でした。
自ら血と汗を流して学び、積み上げた相学の技と知識全てを、まるで惜しげもなく弟子たちへと開けっぴろげにしたのです。
そこには、観相を通じて自らを育ててくれた無数の人々への恩返し、という意味合いはもちろん、
かつて三日三晩、不眠不休で自らの観相学を包み隠さず叩き込んでくれた海常師匠の影響があったのも、想像に難くはありません。
南北くんは、弟子たちにこうも言いました。
(  ̄д ̄)「観相を学ぶなら、まずは師匠に学ぶんだ。師匠の教えをしっかり会得し、自分のものにして、それから本を読む。そうすれば、既に『師は己の内にある』状態だから、上っ面の知識に惑わされることはないし、問題にもならないぜ。それから後はひたすら観相、観相、観相、千人万人を通じた実地の観相、絶え間ない観察を通じて、自分自身で天地と宇宙の理を明らかにしていくしかないんだからさ。そもそも、本といくらにらめっこしてたところで、『人相』を見なきゃ『観相』にならねーじゃん」
事実、南北くん自身が無学の身。
にもかかわらず、海常師匠の教えと導きに触れ、徹底的な実学を通じて、今こうしてあるのです。
迫真の講義は、居合わせた弟子たちの心を――何度となく、強く打ちました。
( ・o・)「ところで、先生」
(  ̄д ̄)「ん、何だ?」
( ・o・)「先生って、背は低いし顔つきも悪党だし、どう見てもこれ以上ない最悪の相ですよね」
(  ̄д ̄)「あけすけに物言う奴だなおい。全然否定できねーどころか思いっきり事実だけどさ」
( ・o・)「なのに、先生はこうして素晴らしい先生として私たちの前に立ってます。これはどういうことなんですか?」
(  ̄д ̄)「そいつはまさに、水野南北っつー人間の、外っ面だけにとらわれて見た結果ってこった。誰しもそうだが、俺は森羅万象の中に生じて、天地宇宙と渾然となって生きてるものなんだ。今ここで、まさにそうあるんだ。だから俺たちは根本的に、乏しいことも、老いることも、死ぬことも知らない存在ってことなんだ。それをわかっていると、誰しもが知らない内に、内側に良相を備えるようになるのさ。
『無相の相を相として、行くも帰るも余所ならず』って禅でも言ってるだろ。
いいか、『相は無相を以って最高の相とする』んだぜ。
本当の『良相』ってやつは、形が無いし、どんな形にもなるんだ。風や水のようにな。
だからそいつは、見よう見ようという心根じゃ、観ることはできないんだ。
さっきも少し言ったが、観相する時には、その「ヒト」を見るんじゃなくて、彼を取り巻く万物、天地、宇宙の声を静かに受け入れるこった。そうすれば、勝手に彼という「にんげん」が浮かび上がってくるからな」
( ・o・)( ・o・)( ・o・)「なーるほどー」
ところで。
その内、弟子たちの間から、
「こんな意義のある講義を、後世に書き残さないのは勿体なさすぎる!」
という声が上がり始めます。
しかし、講義に使う邸宅の一室では、弟子たちがすし詰めで、とても筆を走らせるスペースなどありませんでした。
そこで弟子の内、八助をはじめとした何人かが代表して「書記係」となって南北くんの講義を書きまとめることとなりました。
そうして生まれたのが、
『南北相法』
と題され、後世の観相学に多大な影響を与えることとなる書、
その前編にあたる全五巻である、とされています。
……とまあ、観相家として大成功街道まっしぐらの南北くん。
実はこの頃、恋女房を迎えます。
おかげさまでプライベートでも充実した時期を迎えた、
――かと思いきや、しかしそれは最初の間だけ。
ラブラブだった初めての妻は、半月も経たないうちにだらけて一切家事もしなくなり、堪えきれず注意すれば逆切れして殴りかかってくる……という具合に、怠惰で粗暴な本性を露にし始めたため、
(; ̄д ̄)「これじゃ腰据えて観相なんてできやしねー!」
堪らず南北くん、スイートホームの皮をかぶったキリングハウスから飛んで逃げ出したりしました。
一説には、南北くんは生涯にわたり、なんと十八人の女性を妻にしたと言われています。
一度にではなく、結婚しては別れ、また別の女性に惚れては結婚し、を繰り返した結果です。
しかも滑稽なのは、その全員が全員、ワガママ極まっていたり自堕落だったり乱暴者だったり性根が曲がっていたり……もれなく筋金入りの悪女揃いだった、という徹底した女難っぷり。
当代随一とされるほどの観相の腕をもってすれば、そんな女性たちの相を結婚前に見極めるなど本来造作もない……のですが、そこは女好きで惚れっぽい性分の南北くん。
色恋にのぼせ上がって目がくらみ、祝言上げたはいいけれど、そこで冷静になってからようやく妻の「相」に気付く、というテンプレート。
相手の悪相どおりの言動に、ハッと我に返った時には既に遅し。後の祭り。その繰り返し。
それでも懲りない自分を皮肉ってか、同じように悪妻で悩む弟子との、こんなやりとりもあったほど。
(;-_-)「先生。先生ほどのお方が、どうしてご自身の妻とされる女性の相を予め見抜けないのですか」
(; ̄д ̄)「ハップル宇宙望遠鏡でも、1センチ先で飛ぶハエは見えないものさ……」
(;-_-)「哀愁振りまきながら開き直らないでくださいよ。ぶっちゃけ私は神様に今のどうしようもないDV妻を可愛くて気立ての良い素敵な嫁とトレードしてもらって毎日毎晩キャッキャウフフしたいんです……」
(  ̄д ̄)「正直だなおい。ま、けどさ。結婚したから幸せ、金が名誉が名声があるから幸せ、何かを得たから幸せってわけじゃねーだろ。実際いろいろ観相しててもさ、高学歴で一流企業に入ってベンツと都内の一戸建て買って何不自由ない暮らししてても、心労やら不安やら心配にまみれて、世の中に恨み言ばっかのたまう救いようもなく不幸な奴だっている。逆に貧乏で五体不満足でも、幸せな人はいるんだ。
あのさ、幸せってのはもっと、足元より更に近いとこにあるもんさ。
だからなんつーか、見方を変えようぜ。伴侶との良縁に恵まれないってのは古今東西、一芸を極めるために天がくれた良相でもあるんだから……まあ、お互いめげずにいこうや。酒でもおごるぜ? っつーかDV被害受けてんならまず警察行くか別れろよ。世間体だの生活設計だのぐだぐた考えてそこに甘んじてる方が不幸だぞ?」
という言葉のとおりに。
南北くんは己の観相の道を、その頂上と向けて更に邁進し続けていくのですが、それはこの後のお話にて。
……ときどき、色ボケしながら。
(; ̄д ̄)「うっさいよ色ボケゆーな!!」
つづく。
次回、ナンボククエスト第十六話、
「金は天下の回りもの、縁(¥)も天下を廻るもの」
をお楽しみに。あんまり嘘でもない。