常に曖昧に。
今日、数年ぶりに自分で食べるための生肉を買った。
国産鶏ムネ肉ぶつ切り100g98円を200g。
例えばラーメンに乗っかってくるチャーシューだとか、
パンの材料として使うためのベーコン・ウインナーなどの加工肉とか、
その他出来合いやら付け合せの肉は買ったり食ったりもしたけれど、
ハナから自分で自分が食うための生肉単品を、ってのは本当に、久々。
最後に買ったのは、まだ大絶賛うつ病真っ最中だったころ。
あの虚無感、停滞感、絶望感、もがき苦しみ行き場のない感触を、どうにか解消したくて、
その「ストレス解消」の一環として、一人バーベキューなんかやってみたりした時だったか。
思えば、色んな意味で的外れどころか勘違いも甚だしい、
逆効果な所業だったのだけど、と苦笑いもしてしまう。
だってそうなのさ。例を挙げれば。
まず「ストレス解消」だなんてトンデモな大義名分で、
「ストレス解消すればいいんだから、ストレスは溜めてもいい」ってな錯誤を生んじゃう。
もちろん、どうしても溜まってしまったストレスは解消すべきなのだけど、
そもそも、ストレスの蓄積をしないための方策(たとえば瞑想だとか)を追求するのが筋なのに。
それに、無駄な肉食のエネルギーは気性や気分を荒げ、情緒不安定を招く最大要因の一つってのは、
今になってみれば実感として理屈抜きでよーく理解できる。
……まあ、当時の自分にはそういうことなんて到底理解できなかったからこそ、
今の、まがりなりにも、それなりの、そんな立派なものじゃないにせよ、
それでも一応胸張って前を向けるだけの霊的理解が多分あるんだろうけど。
閑話休題。
で、生肉。
今日ね、献血行ってきたんですよ。
前もちらっと書いたんですが、献血のあとは外食することが多いんですが、今日はそうでなく。
一緒にウイスキー買って、帰宅して、そっちはストレートでコップに注いで。
肉はね、塩とそのウイスキーをパッパと振りかけて、生で(ぇー
良い子は真似しないでねと一応いっときます。
でも、危険だからとは書き足さないでおきますよ。
危険じゃない食なんて厳密には存在しないし、
同時に一つの生命として危険なんてものも存在しないから。
……なんて、小賢しい能書きは抜きです。
というのもね、知りたかったんですよ。体当たりで。
野菜や魚(刺身)は生で食べることも日本の世間では多いでしょうけど、
一般的な家畜の肉を生で食うことに、なぜそんな抵抗の風潮があるのか。
いや、わかるんですけどね、例えば寄生虫だとか病原菌だとか云々。
でも、ですよ。
そういう色眼鏡を取っ払ってみて、更に、ですよ。
やっぱこびりついてる観念として、植物より動物の方が、
『命を食ってる』実感(ことによっては罪悪感)が強いってのは、あると思うんです。
やっぱりそれも偏った価値観から来る幻だと承知の上で。
その、より『本来に近い姿の』『命を頂く事』、その感触を知りたかった。
刺身みたいな、食文化の名の下に麻痺しきった感覚の下で、ではなくて。
いや、だからって自分で開発したカテーテルを自身で人体実験したフォルスマンみたいな偉人さんと一緒にされても、あちらさんにすっごく失礼ですが(ぇー
鶏肉ね、タタキとか刺身用じゃないのですよ。
「硬めですよ、でも味がありますよ」って親切にもラベルに書かれた生鮮パック。
やっぱスジとか小骨とかあってね、いくら細切れつっても、生半可には噛んでも噛み切れない。
でも、噛めば噛むほど、まずスジ以外の部分がサワサワと消えていって、
それでも噛み続けて、ガムみたいになってって、
だけど同時に鶏出汁を濃縮したような(ような、じゃないよねそのまんまだし)風味も出てきて。
総じて言うと、すっごく『生々しい』んですね。
経験的な新鮮味ゆえのものではあるでしょうけれど、
日頃麻痺しがちな、
『命をいただく』ことへの強い実感が、確かにありました。
紛れもなく、
こっちの見知らぬ場所でてこてこ暮らしてた、動物だったんですよ。
噛み締めながら、
「ありがとう、ありがとう」と、
呟かずにはいられなかった6月の夕暮れ。
で、食ってから数時間。状況経過。
普段菜食が多いせいかもしれないですけど、
自分でもわかるくらい、身体から生肉スメルが出てるw
すごいねぇ……強烈なんだねぇ。これもまた、命ってことか。
そういえば、昔あるJリーガーが言ってたっけ。
国際試合で試合終了後にユニフォーム交換すると、
ヨーロッパ系の選手のはものすごく臭いのきついのが多い、って。
肉食文化特有の、濃密な臭気がするんだってさ。
ああ、危険なのでとは書かないとは言っても、
やっぱ自己責任です。
たわしもスーパーの肉売り場で、
川´ー`)「買え。生で食え。安全? 大丈夫じゃ」
てな具合にクエスト出されて軽く悩んだしw
あちらさん的にはいろんな企図があるみたいです。
例えば、気温の上がり始めた時期に合わせて本当に精力をつけさせるためだとか、
同時に、かつて「溺れていた」頃の自分を追体験させて、そこからの再離脱を促し気付きを促進させるためだとか、
こっちの顕在的に感じとれるだけでも他にも色々ありますが、
けど。それらも単なる後付の意味づけって言ってしまえばそれまでなので、結局どうでもいいんです。
なんにしても、どう転んでも、こっちには迷っても迷わなくても詮無きこと。
ともあれ、ひとつ分かった事は、
生だろうが焼こうが、「生(せい)」を食わせていただいていることに違いは微塵もない。
生きるということは、全ての波もひっくるめて、全てがフラットだ。
……さて、思い感じつつもよっぱらっちなので今日は寝ますレスは後で、すんまそん。
明日は朝を漬物と野菜だけにして、半断食でもするか。
keiziさんブログの先日のエントリを読んでふと感じたこと。
(というか、読む少し前に個人的な日記に書いてたこと)
「スピリチュアル」というモノに対する人の解釈、あるいは姿勢には、二種類あると思う。
スピリチュアリティと、スピリチュアリズム。
前者は、霊性。
言い換えれば、霊性を発揮して生きるということ。
あるいは、霊性本来の神聖さを発揮して、ということかもしれないです。
それは同時に、
「『この世に霊的ではないものは存在しない』がゆえに、『スピリチュアルなど存在しない』」
ってことを理屈を越えて理解している。
つまり、「すべてはひとつ、ひとつはすべて」という、
限定された霊性という概念のみにとらわれない深い敬意と洞察が伴っている。そんな姿勢。
後者はイズム、すなわち主義。要するに、霊的主義。
主義が生み出すもの、あるいは生み出される基盤は、分離であり、分離に伴う排他。
だから、霊的主義に軸足を置くと、大なり小なり、自覚の有る無しに関わらず、必ず物質面を軽んじる。
この極地が精神至上主義と言っていいと思う。
気合さえあれば何でもできる、できないのは気合が足りないからだ、みたいな。
まあそこまで突っ切らなくても、イズムな時点で既に、霊性と物質性を別々のものとして捉えている、そんな姿勢。
つまり、スピリチュアルと称されていても、両者は完全に異なるわけで。
主に「スピリチュアル」として悪い意味で槍玉に挙げられるのは、スピリチュアリズムの方じゃないかな。
だから。
スピリチュアリティ(霊性・精神性)は、
スピリチュアリズム(霊的主義・精神主義)を手放す事で初めて万全に現れるんです。
どういうことかって。
さっきの繰り返しになるんですけども。
だって、この世に、スピリチュアル(霊的)でないものはないんですから。
新聞紙やクエン酸や重曹でいろんなものを掃除できる。これもスピリチュアル。
イースト菌が発酵ガスを出してくれてパン生地が膨らむ。これもスピリチュアル。
交差点にミラーが設置されていてくれるおかげで、出会い頭に衝突しないですむ。これもスピリチュアル。
さて。
そんな世界の根っこの中で、ですよ。
スピリチュアル(精神世界)なんて『ジャンル』は、いったいどこに存在しうるんでしょうね?
たわしが現状ブログランキングの類に参加してない理由は、まさにここ。
いやさ、参加してもべつにいいんだけどね……まだその気にはなってない。
※今日の記事は、こと女性、特に母親の皆さんにはひどく顰蹙をかうかもしれません。
けど、敢えて書きます。
昨日地元の公共施設の飲食コーナーで、母親が息子にある言葉を連呼していたのを見たことで湧いたインスピレーションだったので。
《母親とは、人類史上最も偉大な存在であり、
同時に、人類史上最も罪深い存在でもある。
なぜなら、彼女たちによって数多の素晴らしい子供達が誕生したとともに、
また彼女たちによって、
数多の素晴らしい子供達の才能の芽が摘み取られてきたからだ。》
母親が、特に幼い我が子(この『我が』という冠詞自体が元来エゴだがそれは置いて)に対して、
頻繁にぶつける、『四文字の「四い」』がある。
「あぶない」
「きたない」
「うるさい」
「~しなさい」
この四つ。
「あぶない」は、本当に危ない場面であれば、それはもう使うべきだ。
だが、本当に危ない場面で使うケースは、事実滅多にない。
ひどい場合になると(といっても頻繁に見かけるが)、子供が周りに障害も何もない平坦路を数メートルただ走った、それだけでもう過敏な煙感知器のように「あぶない」と連呼する始末だ。
そんな風に「あぶない」と言われ続けた子供は、本来なら問題にもならない軽微なリスクにも、二の足を踏むようになる。
また、危なくないものを危ないと言い続ければ、『逆』狼少年現象が起きることもある。
子供が幼いうちはまだ押さえつけられても、ある程度成長して自我が強まってから、真に「危ない」時に警告が通じなくなることがあるのだ。
「きたない」とは、子供の行為(例えば地べたに座る、素手で地面に触れる、食物や食器以外の何かを舐めたり口にくわえる、など)に対して言っているつもりだろう。
が、それは同時に「あなたは汚い存在だ」と子供にメッセージを送っていることに気づいていない。
子供たちは、ただあるがままに万物を見つめ、あるがままに興味を示しているだけであって、また「興味の対象」と「自己」との境界分離観念が大人ほど強くこびりついていない。
だから、「興味の対象」に「きたない」と言ったつもりでも、子どもたちにとってそれは「自己」がきたないと言われたのと同義なのだ。
「うるさい」、「~しなさい」は言うまでもない。
前者は「否定」「断罪」、後者は「命令」という差異はあるが、
どちらも根っこにあるのは「強制」「強要」「支配」だ。
どんなに躾という大義名分を用いようが、事実としてそれは大なり小なり子供の人格尊厳を無視した行為であり、子供の頭を力で押さえつける言葉の(あるいは『気』の)暴力であり、また、躾を隠れ蓑にした言う側のエゴ的感情に基づいて発せられる場合すら多々ある(用いる当人はほぼ絶対に認めたがらないが)。
どれも、もっと違う言い方があるはずだ。
たとえば、「きたない」を例にすれば。
家に帰ったきり手洗いしていない子供に対し、
「手が汚い」と言うか、
「手にお外のばいきんがついてるから、きれいに洗おうね」というか、
その差は考えてみればわかるだろう。
前者は子供の手、ひいては子供自身が汚いのだと受けとれるが、
後者はあくまで、汚いのは子供ではく、お外のばいきんだと伝えているのだから。
そしてどれも、子供の才能や意欲、自尊心を確実に刈り取っていく。
たとえば過剰に「あぶない」と言い続ければ、僅かでも「あぶない」状況を恐れるような性質を子供に日々せっせと刷り込む。
そうでありながら、「大志を抱こう」「夢を実現しよう」などと焚きつけるのは二律背反、あるいはブレーキをかけながらアクセルを踏ませるのと変わらない。
しかしながら、これらの言葉を呼吸するように投げつける親ほど、
我が子の栄達と繁栄をより強く求めている、という滑稽な矛盾が、
あくまでも全体的な傾向として、世間に蔓延っているのではないか、
と、前からしばしば感じていたと気づいた市立図書館の昼下がり。
もっとも、単なる自分の固定観念かもしれないけどね。
ところで。
「四い」は、示威・恣意・私意(=エゴ)とも読めるね。
前回の続き。
川´ー`)「よいかの。消化器官は、消化酵素を分泌あるいは活動させうる機能を持っておるから、消化器官なのじゃ。
消化器それのみでは、食物は消化できん。
炭水化物やタンパク質どの食物成分は、そのままでは身体は吸収、つまり同化できんのじゃ。
消化酵素の働きによって成分を分解せねば、の。
そう、もう一つのファクターとは消化酵素、
すなわち唾液じゃ」
ま、そりゃそうだわな。( ̄д ̄;)
唾液は炭水化物をブドウ糖に分解する酵素を含んでるから、米とか噛んでると甘みが出てくるっての栄養学的な話題でもよく聞くしね。
川´ー`)「栄養学のう」
なによ宇意さん。その奥歯にものの挟まったような念波は?( ̄д ̄ )
川´ー`)「……栄養学、特にマスコミやワイドショーなどの情報素材として取り上げられる、いわばお茶の間的現代栄養学では、ほぼ無視、あるいは黙殺されておることがある。
それは成分表で明記された食物の栄養分、その全てが、身体に栄養として消化吸収されるとは限らない、ということじゃ」
ああ、つまり吸収しきれずに排泄されるってことね。
ビタミンミネラルカルシウム、計算して一日の基準量分の食事を摂ったとしても、実際に吸収されるのはその内何割かで実は基準に達してない、みたいな。
川´ー`)「それもあるが、そうではない。
『栄養として』と言ったじゃろう。
栄養どころか、毒に変化することも多々ある」
毒っすか!?Σ( ̄Д ̄;)
川´ー`)「口は唯一、食物を物理的に裁断・粉砕する機能を持つ消化器官、と言ったじゃろう。
この重要性は、次の事実と綿密に関係する。
消化酵素は、食物片の表面にしか作用できん。
なぜ、噛まねばおかゆにする意味がないのか、一番の理由はそこじゃ。
おかゆだろうがスルメだろうが関係なく、口を除いた消化器官、つまり内臓は食物を『噛み潰せない』からの。
食物片の表面積を効果的に増やせない、ということじゃ。
よく粉砕されずに送られた食物に対して、外側からじわじわ消化、食物成分を身体に同化可能な状態にもってゆくための分解プロセスをやっていくしかない。
それには消化酵素の非効率な運用や、あるいは内臓自体の揉みほぐすような運動を必死に駆使するほかない。
そう、非効率なのじゃ。ゆえにその分消化酵素を余計に浪費し、また内臓に余計な負担をかける。
つまり、体内リソースの無駄遣い、あるいは酷使じゃ。
口における意識的な怠慢が、他の消化器官、ひいては身体全体に迷惑をかけるのじゃ」
水際作戦ってやつっすか( ̄д ̄;)
川´ー`)「あまりうまい喩えとはいえんが、似てはおるの。
更にじゃ。
内臓の必死の消化活動を経てなお、それでも消化し切れなかった食物、未消化物質は、腸内の悪玉菌の格好の餌になる。
特に未消化の動物性タンパク質は、悪玉菌の大好物じゃ。
いずれにせよ悪玉菌が蔓延すれば、未消化食物は腸内発酵、腐敗を起こし、様々な有毒物質を発生させ、じわじわと、しかし覿面に全身を蝕む。
一説には、人間が一生の内に体内で生み出せる消化酵素の量は決まっており、ゆえにその量が生物の寿命を決めるとさえ言われる向きもあるが、決して誇張とも言い切れんのじゃよ。
そして、これら全ての第一義的発生要因こそが、繰り返しになるが、
不十分な――唾液の分泌まで含めた、咀嚼の不徹底じゃ。
口という第一番目の消化器官において、唾液という消化酵素の活用と、歯による破砕という咀嚼の二大プロセスを充分に行っておれば、上に挙げたような事態は全て防ぎうる。
口内で少し意識を配るだけで、意識的な動作操作の及ばぬ内臓器官への負担には天と地ほどの差が出るのじゃ。
それに、東洋医学でも『唾は飲むべし、痰は吐くべし』と古来より繰り返し言われておるくらいでの。
唾液にはパロチンという一種の成長ホルモンも含まれておる。要は、化学的にも若返り作用があることが判明しておるわけじゃ。
よく噛み、唾液を充分に分泌させることは、単に消化効率を上げ頑健さを保つのみならず、アンチエイジングの効果さえもあるのじゃよ」
――だってさ、うみ委員長!(ぇー
川´ー`)「そもそも、一般に言われておる一日の摂取目安量なんぞ全く当てにならん。
こんな話がある。
ある禅寺の修行僧達の生活に密着した栄養学者が、寺での食事と仕事の内容を検証したという。
その結果、僧の活動から計算した一日の消費カロリーは2000kcal以上あったのに対し、一日の摂取カロリーは1400kcalほどだったそうじゃ」
マイナスじゃん。
川´ー`)「うむ。一般的にも20~40代成人男性の一日あたり所要摂取カロリーは大体2000kcal前後とされておるの。
じゃが、世間のあちこちでは、充分豊かな食事量を摂っておるにも関わらず栄養失調のように病的な佇まいをした者共をよく目にする。
それに対し、僧たちは計算上栄養不足になるはずの少食にもかかわらず、皆すこぶる健康で頑健な体つきを保っておった。いずれにせよ科学的常識とは全くの正反対じゃ。
学者も、僧達は隠れて何か食べておるのではないかと疑ったそうじゃが、実際そのような形跡は全くなかった。
それもそのはず。僧たちは単に、いわゆる粗食を感謝と共によく咀嚼し、じっくりと身体に取り込んでおったのじゃ。
それに加えて、日々の坐禅で精神が静まり定まっており、余計な迷妄によって脳や心身が余計な消耗をせずに済んでおった、という要素もあるがの」
すげぇ! 坊さんすげぇ!Σ( ̄Д ̄ )
川´ー`)「他にも、地球上で最も子を産く産む民族・地域の女性が一日に摂取するカロリーを計測したところ、
平均約1500kcalだった、などという話もある。
現代日本の一般的な価値観からすれば決して豊かとは言えない食生活にもかかわらず、
そのような地域の女性たちは、出産という大エネルギーを要する大事業を幾度もこなしておるのじゃよ。
そもそも、『♪食事ぃ~バランスガ・イ・ド』だの、
『この分類の人間は、これだけの栄養素を含む食物を摂取するとよい』だのと一律に策定した現代栄養学も、
それを算出する際に、『その人間が、どれだけ食物を咀嚼したか』まで計算に入れたかどうか、甚だ疑わしい。
そのような、策定に至るまでの『検査条件』がつまびらかに明示されたデータにお目にかかれることは、中々ないのではないかの?」
うわ毒舌モードきたよ( ̄д ̄:)
そんなん言って、実際に咀嚼度合いまで綿密に考慮した栄養試験データが山盛り出てきても知らんよたわし。
川´ー`)「それならそれで良いではないか。バラエティ番組用でない、真に信頼できうるデータが見つかったということじゃ。
それで面目が潰れるなどというなら、それこそ幻想じゃ。そもそも面目など執着と迷妄の内にしか存在せん」
ごもっとも……。
川´ー`)「さて。話題を変えるかの。
ちょうどそこに、先ほどおぬしが電子レンジとタジン鍋でふかしたじゃがいもがあるの」
うん。自分がふかしたんじゃなくて、電子レンジとタジン鍋がふかしてくれたんだけど。
たわしは絶対に自力で芋を生み出すこともふかすこともできないっ!
川´ー`)「それはこの際どっちでもええ」
……ヒドス。( ̄д ̄ )
川´ー`)「ではそれを咀嚼してみい。わしが良いと言うまで、とことんの」
さらっと流されたよ……ってちょっと待ってその手には乗らねー!
天風師のたくあん話みたいに完全消滅するまで噛ませる気でそ!?
川´ー`)「そこまではせん。ちゃんとストップはかける。四の五の言わずにやるがよい」
へーい。ぱくもぐもぐ……。
川´ー`)「噛めば噛むほど、口内でじゃがいもの感触が変化していくの。
どのような感じか、順を追って表現してみい」
うーむ……なんつーか、こんな感じ?
塊
↓
ごろごろ
↓
ぐちゃぐちゃ
↓
どろどろ
↓
ざらざら ←いまこのへん
……もう充分なんじゃね?
川´ー`)「まだじゃ」
へーい。
……ん?
あ、なんかざらざら感が消えてきた……。
うん、さらさら、って感じに変化したよ。
川´ー`)「そこじゃ。
唾液、消化酵素が食物全体に行き渡った感触がそれじゃ」
わぉ、これもう、液体だね。水溶液。
川´ー`)「固体より液体の方が、より消化には適する。まあ当然じゃの。
食材にもよるが、こと炭水化物類において、完全咀嚼とはそのレベル以上を指すと思っておいてよい」
うわ、言い切っちゃったよこの人……( ̄д ̄;)
川´ー`)「さて、このように咀嚼の感覚を掴めば、様々な食物に応用が利く。
『何回噛めばいい』『最低でも○回以上は噛もう』などという画一的な基準に縛られず、自分にとって最適な咀嚼度合いに基づいて判断を下せる。
ところでその熟達、模索や修練に適した食物、というのはやはりあるの。
人それぞれでもあろうが、おぬしの主観で挙げてみんか?」
へいへい。
ま、個人的にはやっぱ玄米かねぇ。
実際咀嚼について追究するようになったのは、玄米を食べ始めてからだし。
ほかには豆類、芋類もいい感じかな。さっきのじゃがいももそうだけど、噛めば噛むほど、なんというかベーシックに状態変化して、ダイレクトに反応を返してくれるっていうか。
ただ注意点として、食い合わせ的なものもあるとも経験上思うです。
たとえばびっくり炊きの玄米は比較的硬めなんだけど、これを納豆や山芋みたいなネバヌルしたものと一緒に咀嚼しようとすると、ヌルヌルのおかげで米粒が歯から滑ってうまく噛み潰せないんですよこれが。
だから、感覚を養うならまずは、食材単品ずつで試していった方がいいかも?
川´ー`)「玄米以外の穀類はどう思うかの?」
あー、玄米に限らず、白米もとうもろこしも。
てゆか玄米で咀嚼を身につけたってのも、玄米は糠の層がどうしても硬いから、白米よりも消化効率に劣るんですね。
だから、余計に咀嚼してあげないと逆に身体に悪いよ~って聞いたから。それがきっかけ。
ま、そんなだから米はいわずもがな、どの穀類も芋豆と同じくいい感じなんじゃ?
川´ー`)「そうじゃの。
ただし、粉に挽いていない物で、とわしは付け足したいところじゃな」
粉ってことは、パンとか麺とかは? 良くないの?
川´ー`)「いや、別に悪いわけではない。むしろ、粉にすることでそのままでの消化効率自体は本来は良いのじゃ。
じゃが、この消化効率という解釈が曲者での。
元来は唾液と絡ませやすいのじゃが、元が粉であるために唾液が十分分泌されて絡みきる前に、粉砕・裁断を終えたと判断して飲み込んでしまいやすい、という落とし穴がある。
『消化効率』などというのは、突き詰めてしまえばまやかしの言葉じゃ。
『どの程度咀嚼した時点での』消化効率なのかを無視しては何らの指標にもならんし、
そもそも、万全に咀嚼してしまえば、消化効率など100%あるがまま以外にないわい」
だからその投げっぱなしジャーマンな毒舌なんとかならんの宇意さん……( ̄д ̄;)
川´ー`)「ならん」
……もういいや。
川´ー`)「そうかの。ならついでに言えばの。
おぬしが最初に言うた通り、唾液に含まれるアミラーゼという消化酵素は炭水化物に作用する。
ただし、先ほどおぬしは『唾液の酵素は炭水化物をブドウ糖に変える』と言うたが、
科学的にはそれは間違いじゃ」
へ? そなの? ( ̄д ̄;)
川´ー`)「咀嚼時にアミラーゼが炭水化物へ作用して甘みを感じるのは確かじゃが、
より正確には炭水化物の一種であるデンプンを麦芽糖(マルトース)や糊精(デキストリン)に変化させる。これらが米を噛んだ時の甘みの正体じゃ。
そして、この麦芽糖や糊精は、実はまだこのままでは体組織には吸収されん。
ここから更に小腸や膵臓、十二指腸などの働きによってグルコース、つまりブドウ糖となり、ようやく吸収可能となる。
要は麦芽糖などは単なる中間生成物じゃ」
へ、へぇ……そうだったん……まじで知らんかった( ̄Д ̄;)
川´ー`)「ともかくじゃ。
これら炭水化物をよく噛まないのは、口という消化器官の作用を『特に』無駄にする行為なわけじゃ。
たとえば膵臓から分泌される膵液でもデンプンを麦芽糖へ分解できるが、その分膵臓への負担は跳ね上がる。
逆にこれらをよく噛んで唾液を活用すれば、負担軽減効果は覿面。
そして噛み抜く癖がつけば、もちろん炭水化物以外への好影響も多大じゃ。
先ほども言うた通り、酵素は食物の表面にしか働きかけることは出来ないがゆえ、各栄養素に対応した体内の消化酵素が、各々存分に働けるようになるからの。
氷の塊と、同じ体積の粉々に砕いた氷、融けるのが早いのはどちらか、言うまでもないの?」
うんうん。( ̄∇ ̄*)
そういえば他にも、水分含有率が高くて、かつシャキシャキと適度な歯応えのある野菜類なども個人的にはいい感じ。
たとえば、キュウリ、大根、キャベツの芯に近いほうとかね。
水分が多いから、噛めば噛むほどどんどん体積が減ってって、「ああ~噛んでるぅ~」って感じがすんのよw
口に入れたときはそれなりの体積があっても、水分が抜けた後はコンパクトになるから噛み続けるのもそんなに労力要らないし。
ちなみに同じ野菜でも、ゴボウなどの繊維質の多いものは、慣れてからでないと果てが知れないから、まずはさっきあげたような食材で噛み癖と感覚を掴んでからのほうがいいんじゃないかな。
川´ー`)「おぬしがそう考えておるなら、おぬしにとってはそれでよろしい」
なにそれなげやりー( ̄д ̄ )
川´ー`)「こういったことは各々が各々にとって、経験と試行錯誤と直観でもって己にとっての最適を導き出す以外にないわい。
おぬしがやっておるのは、ただ単にそのケーススタディとしての一例をあげておるにすぎん」
まあそうだけどさ。
川´ー`)「ただし、じゃ。
あまりに柔らかすぎる食物は、数少ない噛み数で細かくなるために、そこで充分咀嚼したと錯誤して飲み込んでしまいがちじゃから、よく留意することじゃな。
液体、すなわち飲料や汁物の類もそうじゃ。
特に夏場などはがぶ飲みしがちじゃが、かような状態では、唾液と充分にからんでいない。
確かに液体の方が有利であるとはいえ、消化吸収、そして消化酵素による栄養素への働きかけという作用自体に、食料と飲料の垣根はない。
ついでじゃが、冷えた飲料ならば更に、急激な冷却によって胃腸を確実に痛めつけるしの。口内にある程度留めて液温を上げることで、胃腸のショックを和らげることができる。
……さて。
始めにも、栄養素がどれだけ吸収されるかがお茶の間的な現代栄養学では無視されている、と言ったがの。
噛めば噛むほど健康に良いのは、医療文献や古来からの養生法を紐解いても明らかじゃ。
ならばなぜ無視されておるのかとなると、やはり『咀嚼しない事で得をする者がおる』からじゃの。
たとえば食料品産業。誰もがよく噛んで少食で済むようになれば、売り上げは落ちるからの。
それに咀嚼で万民が健康になれば、医薬品や健康食品メーカーなども痛手を被る。
何より、それらを買え買えもっと買えとあの手この手で喧伝するテレビなどマスコミも、同じ穴のムジナ、どころか最も『啓蒙する能力』があるにもかかわらずそれをせぬのじゃから、仮に責任というものがあるとして、それに序列をつけるなれば、ハッキリ言ってここが一等じゃな。
『咀嚼は身体に良い』という、解りきっている明快な事実が中々広く大々的に啓蒙されぬのには、どう取り繕うともそこに理由の一部があるのは間違いないわい」
ちょ、だから毒舌!Σ( ̄д ̄;)
月のない夜道に気をつけろとかメール来るの勘弁よ!?
川´ー`)「気にせんでええ。そもそも、だからと言うてそのようなことは論点ではないわい。
大事なのは、今、各々がどうするか、どうあるか、じゃ。
健康になりたくば、噛むがよい。
疑念があり、その虚実を明かしたければ、自ら噛んで検証すればよい。それだけじゃ。
うまくいけば丸儲け、失敗しても何ら損はないのじゃからな。
お茶の間栄養学が黙殺しておるとしても、実際よく咀嚼すれば、より額面に近い栄養素が吸収できるようになるのは間違いなかろう。そんな黙殺などどこ吹く風となるわけじゃ」
うう、なんという自灯明っぷり……( ̄д ̄;)
川´ー`)「まあ、それでもやはり、噛む時間がない、という者はおる。
じゃが、の。
そういう者こそ、今すぐにでも完全咀嚼を始めるべきじゃ」
あー、前もあったね、咀嚼と健康のパラドックス。
川´ー`)「そうじゃ。よく咀嚼する事で、逆に時間に余裕が生まれる。
さて、その理由と筋道について説明できるの?」
おkおk。
つまりこういうこと。
●よく噛む
→確かに単位食事量あたりの所要時間は大幅に増える。
→けど同時に、より少ない食事量・回数で充分な済ませられ、栄養を摂取できるようになる。
慣れるまでは食事量を減らしきれなくてやきもきするかもしれないけど、
慣れていけば必ず、次第に食事量も回数も減ってくるものなんです。いやほんと。
→結果、トータルで見ると食事に要する時間に大した差はなくなる。
またこんな面からも言えるね。
●よく噛む
→消化効率が大幅アップ。
→食後、消化に血流など活力が割かれて仕事や学業に集中できない非能率時間帯が減る。
これには食事量・回数の削減との相乗効果もありますね。
→様々な作業に対して、より長時間身が入り、物事を効率的かつ効果的に進められるようになる。
→トータルとして、食事以外の有効活動時間に余裕が生まれる。残業しないですんだりとかね。
あるいは、
●よく噛む
→胃腸の調子が整って、自然と心身の健康が持ち直す。
→同時にストレスも減り、相乗効果で従来よりも寝つきや目覚めが良くなる。
→更に少ない睡眠時間でも万全の体調を保てるようになる。
→一日の活動可能時間が増え、結果的にトータルとして時間的余裕が生まれる。
早朝にランニングや資格試験の勉強をしたりもできるね。
通院してたなら、その必要もなくなって時間どころか病院代も浮く、と。
川´ー`)「うむ。そのへんでよかろう。
何はともあれ、この咀嚼徹底によって最低限保障されておるメリットは、
ある程度健全な顎と歯さえ揃っておれば、実践に一切の追加コストがかからん、ということじゃ。
むしろ長期的には食費が減り、場合によっては社会的・経済的な成功と繁栄にも繋がろうの。
19世紀イギリスの政治家・グラッドストーンは80歳代の頃、
新聞記者に「どうしたらあなたのように年老いても元気溌剌でいられるのか」と問われた際、
『天は我々に32本の歯を与えた。
ゆえに食物を最低でも32回は噛むようにしているし、
子供たちにもそれを言い聞かせ、守らせている。
でなければ、立派な人間になることなどできない』
と答えたそうじゃ。
仮初にも肉体持ちて今生の生を得た以上、食なしには全うできん。
完全なる咀嚼は、食物という恩ある命に表せる最大の敬意であり、
また同時に自己の心身という恩ある命への大いなる慈しみである、と心得よ」
うぃーっす。( ̄Д ̄ )
てなわけで、咀嚼シリーズはひとまずここまで。
長々とお付き合いいただき、まことにありがとうございました~っm(_ _)m
前回の続き。
で、どうひっくり返すのさ。
川´ー`)「硬い物に異を唱えるならば、柔らかいものならばどうか、ということじゃよ」
あー、あー……なるほど。
異を唱えたっつーのも何か違うけど置いといて、そゆことなら。
川´ー`)「思いついたの。ならばそれで話を展開してみるがええ」
おk。んじゃ早速……。
いわゆる消化の良い食べ物の代名詞って言ったら、何を思い浮かべます?
あくまでたわしの『「世間一般的な印象」に対する独断と偏見』で言えば、
おかゆ
なんじゃないかなと。
消化に良いから、大して噛まないで飲み込んでも平気さー、
だなんて無意識のうちに(←ここ重要)思い込んでる人、多いんじゃないですかね。
結論から言うとですよ。
噛まなきゃ、おかゆにする意味ないです。
おかゆってのは、ただそれだけで消化に良いわけじゃないんです。
内臓での消化に都合の良い状態に持っていく(=噛み砕く)ことが、力の弱った病人でも容易いほど極めて柔らかいがゆえに、消化に良いんです。
健康な人でも留意すべきですが、これが身体の弱った病人ならなおさら、おそらく高確率で内臓・消化器官も弱ってます。
それなのにろくに噛まずに飲み込んだおかゆを消化しようとして胃腸に余計な負担をかければ、かえって身体を弱めることにもなりゃしませんか。
いや別に、病人におかゆを食わせるのが良くないって言ってるんじゃないですよ。
おかゆすら咀嚼しない病人(もちろん病人に限った話じゃないですけど)が、おかゆより固くて咀嚼しにくい食べ物を満足に咀嚼するとは限りませんし。
でも一方で、患者によっては逆に、
さらっと飲み込んでしまいがちなおかゆより、適度に固くて「噛む気にさせる」食べ物を与えた方が、結果的に肉体への負担軽減と早期回復に繋がる事もあるんじゃないかなー、とも言えるわけで。
ま、ケースバイケースでしょうが、その辺は患者本人(または自分自身)と相談する価値はあるんじゃないかなと。
……って、なんじゃこりゃ。
いつのまにか看病するシチュエーションに話が脱線しとるがな( ̄д ̄;)
川´ー`)「まあええ、おぬしの行き当たりばったりは今に始まったことではない」
うるさいよ! Σ( ̄д ̄#)
川´ー`)「わしからもよいかの」
華麗にスルーされたよ……はいはいどうぞ。
川´ー`)「これは多くの者が、知識としては知っておっても、実生活上の実感としてほぼ意識しておらぬ事実じゃから改めて言うぞ。
口は、消化器官じゃ。
胃や腸と同じ、内臓の延長じゃ。
更に消化器官としての口はの、胃腸など他の器官にはない重要な2つの特性がある。何かわかるか?
一つは消化器官の中で唯一、食物を物理的に裁断・粉砕する機能を持つ、ということ。
もう一つは、意識的に、つまり自己意志を持って作動させうる唯一の消化器官である、ということじゃ。
口は「言葉・声」という、「意志・意識」の波動を強烈に発する場所でもあるということは非常に示唆的だと思わぬか。
口を経由する意志は、外に向けては言葉となるが、同じく内に向けては咀嚼という形で、やはり言葉同様強烈にその人物を形作る。
喉には第五チャクラがあるとされておるの。このチャクラは意思表示を司るというが、やはり口に直結しておる。
言葉という外向きの意志も、咀嚼および嚥下という内向きの意志も、全て喉を通るからの、さもありなんじゃ。
さて、口を消化器官として見た時、咀嚼というのはまさしく、イコール消化であるとわかるの。
では、じゃ。ここでひとつ聞こう」
なにさ。( ̄Д ̄ )
川´ー`)「おぬしはここまで、『咀嚼』と称して、『顎を動かし、歯で噛み倒すこと』の大事さを語ってきたの。
じゃが『咀嚼という消化』には、もうひとつ、見逃してはならん重要なファクターがあることに気づかんか?」
もひとつ?( ̄д ̄;)
続くです。