常に曖昧に。
てなわけで今日焼けたよーcuocaの苺ミルク食パンミックス!
内容物はこの過去記事で見てくださいな。
粉入りの内袋を開封するともうこの時点で苺でミルクで甘ったるいメルヘンな香りが……w
調理途中の様子は続きにてー。
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おにごっこすると勝敗つかなさそうなだだっぴろさ。
そんな折、
トリコロールの奴が来た!
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久々に頻繁に目にして気になる三桁数字が出てきたので、数字のメッセージを見ようと思ってgoogleで「エンジェルナンバー」って検索したら上から2番目に誕生日占いなるものが出てきたので興味本位でやってみたら、こんな結果。
「巫女」「ファジー」とかどんなシンクロ?とか、
「直感的に「答え」がわかりますが、「式」を論理的に説明できません。」とかまんまやん!とか、
なんか、ちょー思い当たるフシのオンパレードなんですが……( ̄д ̄;)
さて、今日のこの記事はいつもとちょっと(かなり)毛色が違います。
そもそも記事と呼べるかどうかも怪しい内容です。
半分が一昨日書いたもの。
それ以外も全く、視線とか姿勢とか、つきつめれば心理状態や波動的なものが一変した状態で一貫性皆無。文脈のつながりも皆無。
それをまるきり辻褄合せさえしないままに書きなぐって、さらにそれをほとんど修正しないまま……という、ある意味とってもネイティブな便所の落書き。
正直読まれるのも恥ずかしいって部分があるので、寛大で寛容な人だけ続きをうぐぅ(何
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さてさて、お待たせしました前回の続き。
謎の易者・水野海常に弟子入りした南北くん。
早速連れられてやって来たのは、海常師匠の住まう貧乏長屋の一室。
くたびれた畳の上には、簡素な経机が一つと、山と積まれた諸々の書籍。
観相学はもちろん、四書五経・仏経典・神学・儒学・朱子学・風水・陰陽・その他国の内外を問わず様々なジャンルの学術書が混沌と入り雑じっていました。
その一冊を手にとってみた南北くん、パラパラと数ページめくってはみたものの。
(; ̄д ̄)「うわ、無理だわこれ。何書いてるのかさーっぱりわけわからん……よく考えたら俺、読み書きなんて学んだことないじゃん」
♀(゚┏ω┓゚ )「ぶわっかもぉーん!」
(# ̄Д ̄)「あいたぁっ! いきなり殴った!? つーかおたまの背ってめっちゃ痛いんだぞ! もしかして血迷いましたかっ! 殿中でござる!」
(゚┏ω┓゚ )「血迷っとるのはそっちじゃ。お主はわしの弟子になったじゃろうが。師匠が弟子の不見識を正すのは当然の勤めじゃ」
(; ̄д ̄)「う……け、けど不見識っつったってさぁ。自慢じゃないけど俺、寺子屋にも行ったことないし、学問なんてからっきしだよ?」
(゚┏ω┓゚ )「その認識こそが不見識じゃと言っておる」
(  ̄д ̄)「はい?」
(゚┏ω┓゚ )「相というものは、いわば『万物の姿』じゃ。観相学とはまさしく、それを観通す智慧と業(わざ)じゃ。実際に千の相、万の相を観て、観て、観抜き倒す実学なしには到底究めることあたわず」
(  ̄д ̄)「実学……実践っすか」
(゚┏ω┓゚ )「さよう。いくら千冊万冊の書を読んだところで、それのみでは地面の上で水泳の練習をするようなものじゃ。何の意味もなさん」
(  ̄д ̄)「で、でも水に入る前に泳ぎ方を知らなきゃ泳げないっしょ? それと同じで書が読めなきゃそのための基礎知識も身につかないんじゃないっすか? だから書って学問には欠かせない大切な――」
(゚┏ω┓゚ )「こんなものは言ってしまえばただの紙束と墨汚れの塊にすぎんわ。ヤギに食わせりゃただのエサじゃ」
(; ̄д ̄)「うわ、世界中の本屋さんに訴えられても知らないよ!?」
(゚┏ω┓゚ )「そういう見方もできる、というだけの話じゃ。もちろん読む者が読めば、書は偉大な師ともなる。じゃが、今大事なのはそこではない」
そして海常、居住まいを正して南北くんを真正面から見据え、厳かに語りだしました。
(゚┏ω┓゚ )「よいか、よく聞け。お主は確かに学はなく書も読めず、顔も悪いかもしれん」
(; ̄д ̄)「顔しつこいなおい」
(゚┏ω┓゚ )「じゃが、お主は極道あがり故に人々の心の機微に聡い。またその過酷な世界で生き延びるために必要な優れた記憶力、判断力、胆力、体力、そして若さもある。それは素晴らしいお主の財産じゃ」
(  ̄Д ̄)「あ……」
(゚┏ω┓゚ )「学と顔には恵まれんかったかもしれん。しかしお主は、はじめから充分に恵まれておったのじゃ。今まで誰にも――お主自身も含めて、それを認め、気付かせてくれる者がおらんかっただけでの」
( TдT)「し、師匠……」
(゚┏ω┓゚ )「瞳潤ませて抱きつくでない暑苦しい。ええいワシの服で鼻水拭くでないわ」
(  ̄д ̄)「ずび……で、でも師匠。それでも書物を読めなきゃ学問にはならないんじゃないっすか? やっぱり基礎知識とかは大事っていうか」
(゚┏ω┓゚ )「そこが不見識じゃと言ったろう。書の価値とは文字にあるのでも紙にあるのでもない。そこに詰まった情報、そして先人の智慧にこそある」
(; ̄д ̄)「だ、だから、それも読めなきゃ意味が……」
(゚┏ω┓゚ )「誰が、『読む』必要があると言った?」
(  ̄д ̄)「は?」
(゚┏ω┓゚ )「お主の目の前におるのは誰じゃ」
(  ̄д ̄)「だ、誰って……師匠ですよね?」
(゚┏ω┓゚ )「そうじゃ。そして、これら数々の書に記された智慧は、どこにあると思う?」
Σ(; ̄д ̄)「どこって……あ、まさか!」
(゚┏ω┓゚ )「ようやく気付いたようじゃの。そう、お主が書を読めぬなら、ワシがお主の書となろう。書が師となるのであれば、逆もまた真なりじゃよ」
(*TДT)「し、師匠ぉぉぉ……」
(゚┏ω┓゚ )「じゃからワシの服で鼻水拭くでないわ。……では、これよりワシが持つ観相の知識全てをお主に授ける! 仔細漏らさず、心して聞くがよいぞ!」
(* ̄Д ̄)「はいっ、し、師匠っ!」
こうして、海常師匠による南北くんへのマンツーマン集中講義が始まりました。
(゚┏ω┓゚ )「先も言うたが、観相とはものの姿を観ることじゃ。顔のみならず、脳天から爪先、体毛一本にいたるまで、はたまた立ち姿歩き姿座り姿、その他全ての動作も含めた、人間そのものの姿を観抜き通すことじゃ。ゆえに観相学とは、人間学とも言ってよい」
(  ̄д ̄)「ほうほう」
海常の言葉は未知の世界を次々に切り開いていく鉈のようで、南北くんは目を輝かせるばかり。
時には身を乗り出したりしながら、文字通り真綿が水を吸うように、持ち前の恐るべき記憶力と集中力で、師匠が根気よく伝えてくれる数々の知識を我が物にしていきました。
(゚┏ω┓゚ )「まず基本姿勢じゃ。ゆったりと呼吸を整え、気海丹田に意識を集中し、五感と思考を遠ざけ……いわゆる瞑想状態じゃの。そうして初めて己の心の鏡に相手の相を写し出すことができる」
(  ̄д ̄)「ふむふむ」
そうして三日三晩、不眠不休で講義は続けられ、
ついに、四日目の朝。
(゚┏ω┓゚ )「うむ。これにてワシの観相の知識は全てお主に与えた! ようやったぞ南北!」
(* ̄Д ̄)「おっしゃー! やったよ師匠! ありがとう師匠!」
(゚┏ω┓゚ )「うむうむ。それでは南北よ、」
(  ̄Д ̄)「はい、師匠!」
(  ̄д ̄)「せーの、」(゚┏ω┓゚ )
ばたん!
Zzz... Zzz...
_●■〓 〓■●_ きゅー……。
……。
一昼夜眠り続け、目が覚めた二人。
その時既に南北くんは、次に自分が行うことを理解していました。
(  ̄д ̄)「師匠……それじゃ俺、旅に出ます」
(゚┏ω┓゚ )「うむ。千人万人の観相を通して、実学としての観相を究めてまいれ」
(  ̄д ̄)「はい、いってきます師匠!」
(゚┏ω┓゚ )「さあ行け、勇者南北! 宇宙の平和を取り戻すのだ!」
(; ̄Д ̄)「いやもうその引きはいいから!」
こうして観相学の第一歩を文字通り踏み出した南北くん。
この旅が、南北くんに数々の出会いをもたらし、彼を稀代の観相師へと鍛え上げてゆくのですが、それはまた後のお話にて。
次回、ナンボククエスト、
第7話「洗い髪を芯まで冷やして小さな石鹸カタカタ言わせたろか」
をお楽しみに。嘘です。
つづく。
この世に「私」はいない。
この世の全ては、「宇宙の現象」。
この手の、腕の、足の、心臓の、
この体くんの刻むあらゆる動作も、宇宙の現象。
この視覚の、聴覚の、心の、感情の、
この心くんの感じるあらゆる情報も、宇宙の現象。
「私」は、ただそれを観察するのみ。
この世ではない、少なくとも物質ではないどこかから。
そして、いつだって、
この世では体くんと心くんが、勝手にお仕事してくれている。
香ばしい米の香りにホッとしてくれて、
しっかりと箸と茶碗を持ってくれて、
美味しく噛み締めた食べ物を消化吸収してくれて、
肺も心臓も血流も、年がら年中動き続けてくれて。
ほとんどの人が、体くんや心くんこそが「私」だと思い込んでる。
けど、本当はそうじゃないことを、「私」は知っている。
ただ、それを忘れているだけ。
昔は、体くんや心くんに、ああしろこうしろと命令してばかりいた。
それどころか、「私」の力で体くんや心くんを完全に動かして、生かして、成り立たせているのだと思い上がっていた。
だけど、他人が自分の思いどおりに動くことはほとんどないのと同じ。
「私」ではない体くんや心くんは、必ずしも命令どおりに動いてくれるわけじゃない。
内臓ひとつ、神経ひとつ、呼吸ひとつ、「私」の力じゃ働かない。
腕一本、指一本、どんなに命令しても動かないときは動かせない。
心だって、思考だって、「私」を離れて勝手に暴走するなんてのも珍しくない。
そんな単純なことも理解せず、「私」は体くんや心くんに罵声を浴びせ、鞭をうち、痛めつけてしまっていた。
そんなんじゃ、体くんや心くんだって、厭にもなるよね。
今はもう、ただ見守るだけ、観察するだけの方が多くなった。
せいぜい、「できればここはこうしてくれたらありがたいな」と、ちょっとだけお願いするくらい。
ああしろこうしろと、下手に「私」がこと細かく口出しするより、
体くんと心くんが自主的に動いてくれた方がよほどいい仕事してくれるから。
ありがとう。ありがとう。
……え?
じゃあ、「私」ってのは一体何だって?
そんなの説明できるわけないじゃん。
説明したくないんじゃなくて、説明不能。明示不能。
だって、知りようがないから。
「私について」を知ることはできても、「私」を知ることはできなさそうだから。
この世の理屈で表せる形では、ね。
でも、そうだねぇ。それでも強いて言えば。
想像してみて。
今の自分から視覚を除いて、聴覚を除いて、触覚嗅覚味覚その他全身体感覚を除いて、
思考を除いて、感情を除いて、信念も衝動も反射も何もかも、完全に除いて除ききって、
そうして残ったものが、『私』だよ。
<私は、私が何も知らないことを知っている>
ソクラテス
個人的に、
「私は、私が『私を』何も知らないことを知っている」
とした方が、一般的に言われる『無知の知』より根本的な意味に近いと思うんだ。
「私を知る」のと「私について知る」のとは全く違う、ってのを踏まえた上でだけど。