常に曖昧に。
さてさて。
一昨日の晩にすぴぴっとインスピレーションがあって、
昨日は和布刈神社までロードバイク一人旅。
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かの壇ノ浦の合戦にもゆかりのある神社でござります。
車体を中距離日帰りレベル装備にして午前10時前に我が家を出発。
途中いくつかのパン屋で昼食兼研究用wのパンを購入しつつ、
海岸沿いのルートをのんびり伝って到着したのが12時半ごろ。
関門橋真下すぐ脇、関門トンネル人道入り口にも程近い場所。
つーかね久々にまともに海見たよ海!
磯の香りに潮騒の音! 感動した! byじゅんいちろー
何を隠そう、実は、初参拝。
この神社に来るのも来ようと思ったのも初めてで。
ちょーし乗ってぱしゃぱしゃ写真撮ってみたり。
これが本殿。
参道は本殿向かって右側から繋がってる形になります。
途中お守りとかの売り場はありましたが、日曜のためか?閉まってました。
本殿正面の鳥居はそのまま海に面してます。
そこから見える灯篭が下の写真。
本殿右に立ってる案内。
で、本殿すぐ左隣に軽く回りこむと、いかにもお稲荷さんな赤い鳥居が。
これをくぐって石段を上った先には小さな社が二つあって、
それぞれ早鞆稲荷と恵美須神社、って名前らしいです。
わくてかして写真に撮ろうと思ったんだけど、
カメラを構えようとしたら「撮るな」と思念みたいなのが響いてきたので、念のためやめときました。残念ながら。
そーゆー霊的な何かなのか、はたまた固定観念とかによるストッパーなのかはなんともいえませんがー。
なのでどんな場所かは上のリンクから見てもらえれば。
本殿から歩いて10秒もかからないのに、こっちにはほとんど誰もきません。
鳥居前で10分くらいぽつねんと立ち尽くしてみたんだけどねー。(ぇー
そんなこんなでこっちにもお参りしてみたら、ですよ。
何の脈絡も無く、今ここにいる感謝があふれてきて、たぱたぱと涙がでてきたりでてきたり。
しばらくわけもわからず滂沱してますた。
ほんと、あまりに唐突で混乱半分のままw
にしても、そもそもここまできたきっかけってのが、
食べログで地元周辺の人気パン屋の位置を調べてGoogleマップをぐりぐり動かしていたところにふと目に入った。ただそれだけ(ぇー
どうやら、パンつながりから何からここにつれてくるための布石でもあった模様……といっても、一体何の意味があったのかは全く不明ですがw
教えてくれないのさ、こいつ。→川´ー`)
参拝後、すぐ近く、海峡沿いの遊歩道で、途中で買ったパン摂食&休憩。
その途中で通過してった船のうち、多分最大のがこれ。
ビルも真っ青の船尾が個人的にヒット。
つーか、こんなサイズの船まで通るのを見るにつけ、関門海峡は狭い難所ってのもわかる気がする。
そんなこんなで1時間くらいのんびりぼけーっと海峡を眺めてから、復路スタート。
やっぱり帰りものんびりサイクリング。
帰還したのが15時半ごろ。おつかれさん。
……あっ、お土産買うの忘れた!(ぇー
おまけ。
途中で見つけたなかよしさん。
ふぃーっと。
先月から抱えて詰まってた案件が、おかげさまで昨日ようやく片付きまして。
これで少しは更新にもリソースを割けると思うます。ほったらかしぎみでほんとすまそん。
巡回もほとんどしてなかったしなぁ、ぼちぼちネットお散歩しよっと。
さて、sarasaさんにいただいたコメントでふと思ったんですが。
確かにたわしも含めて、なかなかほとんどの人は一つの方法論に固執しちゃい気味なんですよね。
昨日買ったスマナサーラ長老の『怒らないこと』に、
「『私こそが唯一正しい』が人間の本音」
とありましたが、うむ、これにも当てはまるなぁ、と。
正しい、は、間違い、があるからこそ存在する二元相対の観念。
人はとかく、あらゆるものを二元相対的に見ようとします。
言葉や思考、またそれらが表現するものも、全て二元性の上に成り立っています。
でも、この世は実は一元絶対の世界。
そこを履き違えるから、そのギャップが苦しみという摩擦になるわけで。
ちなみにここでいう苦しみってのは、怒りや嫉妬や渇愛といった、自分の心を束縛する思いや感情。
まあ、一元性と二元性、という考え方自体も実は二元性的な観念に基づいたものなので、
本当には一元性も二元性もないってことでもあるんですが、
ああもう二元性に基づいてしか言葉では説明できないのがもどかしいw
まあだから、要はお釈迦さんとかが言ってるのって、
この二元相対性による幻の世界から、一元絶対性による真実の世界に戻りましょうよ、ってことでもあるんでしょうね。
ほとんどの人が現実だと思っている二元相対世界が実は幻想で、同じく幻想だと思っている一元絶対世界が実は現実ですよ、っていう。
となると、そのアベコベを見抜くのが目覚めで、アベコベを元通りにするのが悟りって解釈もできなくもないかもしれないけどそれはまあいいや(ぇー
にしても、言葉にするとやっぱりニュアンスのズレや誤誘導の危険性が出てきますねぇ。
書かなきゃ話にも記事にもならないんで書いちゃいますが。w
でね。
さっきの『怒らないこと』には、こうもあったんですよ。
「『私は正しい』と思うから怒る」と。
案件詰まらせてたここしばらくの間、結構この怒りに属する感情が湧いてしまうことがあったんですが、
振り返ってみれば、ただの一つもの例外なく「自分が正しいと思っていた」から、なんですよね。
だからどんな種類でも怒りが湧いたら、それを治めるには、
「自分が正しいわけではない、相手が正しいのかもしれない」
そう思うことがまず入り口だと、身をもって痛感します。
……が、それはあくまで入り口なんですね。
対処療法的であって根本治療的ではないというか。
そこから更に進めて。
正しいというのは間違いというものがあって成り立つ二元性の産物なのだから、
そもそも自分にも相手にも、正しいも間違いもないのだ、ということを把握する。
それを敢えてこの二元相対世界でも解釈できるように言えば、
強いて言うなら正しいしかない、ということになる。
もちろんそれは一元絶対における正確な表現ではないけれど、
そこを踏まえた上で、それが、あるがまま、ということになる。
そこまでいくと、これまでの色んな精神的な知識や解釈とも有機的に結合し始めるんですよね。
結局のところ、「いまここ・今この瞬間」に何もかもがあるということを見抜いていること、それが唯一の全てなんだと、改めて腑に落ちている次第。
そういうことを実感できたという意味で、ここしばらくの経験は面白いものだったと、省みています。
とまあ、またとりとめもない徒然でしたが、今日はこのへんで。
南北くんもぼちぼち再開取り掛かるかぁ。
あとはただ
宇宙として
生きるのみ
We're the universe.
uni = 一つの
verse = 詩(歌)
歌といえば、
今朝なぜか真っ先に浮かんできたのが、大黒摩季の「ら・ら・ら」
無明に溺れる人の有り様を歌った詞は数あれど(むしろそれが大半だよね)、
それをここまで写実的に描いたのもかえって珍しいなや、と。
先日阿部さんがブログで、耳を澄ませる瞑想法を紹介してましたが、実はこれ、たわしも以前からずっと実践してたことなんですよ。
あとは、呼吸を集中して感じる方法とか。
でもですね、先月下旬から末にかけて、精神的に大きな乱れがありまして。一週間ほど更新があいた直接的な原因はそれなんですが。
ぶっちゃけ言ってしまえば、聴覚や呼吸集中による方法が、うまくいかなくなってたんですね。
それまで平然と感じられていたのに、特にこと「声」に関しては、それに自動的に意味づけや判断・感想を弾き出してしまう自動思考が、とにかく収まらない。
その結果なのかどうかはわかりませんが、連続する不安の状態と、ある一つの落胆する事態を引き寄せてしまいました。
でも、その落胆の最中に、ふと見つけたたんですね。
指先、掌、足の裏、それらの触覚に意識を集中させた方が、今の自分にとっては聴覚や呼吸よりも圧倒的に瞑想状態に入りやすい、と。
もちろん現状、聴覚や、他にも嗅覚や視覚も活用・併用できますし、一応しています。
そもそも、触覚への集中も以前から活用はしていたんですが……もしかすると、聴覚集中への固執みたいなものがいつのまにかできていたのかもしれないです。
それを、ぶち破ってもらえた、みたいな。
ちなみに、更に波動が高い状態なら、五感全て、全身の皮膚の触覚はもちろん、それ以上のものまで感じられる瞬間だってあります。
その瞬間は、全てがいっぺんに流れ込んできて、意識ははっきりと覚醒してそれらを感覚していて、でもそれらに決して名前をつけることなんてないし、しようがない、そんな感じ。
でも、足裏や掌だけ、あるいは聴覚だけといった一部集中の場合、そこまでには至らないんですね。きっかけや呼び水になることはあっても。
それはたぶん、科学的に表現すると「脳波をベータ波からアルファ波にシフトする」形式であって、要するに、意識レベルの『底上げ』なんですね。脳波なんて測ったことないですけど。
対してさっきのような「全てを感じる」ときは、おそらくデルタ波やシータ波になってるんじゃないかなーって気がします。
そういう意味では、目覚めとか悟りとかってのも科学的にはベータ波以外の脳波状態のことと言えるのかもしれんです。よく知らんけど(ぇー
で、昨夜のこと。
久々に、湯船に浸かりながら軽くワインをひっかけたんですよ。
そしたら、すんごい吐き気とか目眩とかでもう一晩中グロッキー。
多分、軽い急性アル中みたいなもんだったのかな?
何にしても今まで時々同じような事してもこんな状況になんてならなかったし、そもそもこの程度の酒量で酔っぱらうこと自体珍しいわけで、軽く焦ったりして思考がぐるぐる回ったり。
あ、今日昼過ぎまで横になって既に快復してあるのでその点ご心配なく。
ご存知の方はご存知の通り、思考ってやつは、
「この先どうなってしまうんだろう」
「あの時あんな事さえしなければ」
と、過去や未来に意識のフォーカスを飛ばさせてしまうんですね。
それで発生するのが、不安だとか恐れだとか。
でも、ですよ。
そんな時だからこそ、瞑想状態にある方がいいんです。
で、そんな状態であるがゆえに、掌や足裏での集中がものすごく効果を発揮したんですよ。
音や呼吸では、当時の自分ではたぶんそううまくはいかなかった気がします。
そうして、しばらくいまここに意識を集中させていると、過去や未来に飛ぶ思考の渦の中では見えなかったことに気づき始めるんですね。
たとえば、今日は仕事が休みで同僚に迷惑をかけずに済んだのは幸い、だとか。
こうして肉体的な非常事態の時こそ瞑想にあるといい、という実体験としての教訓を得させてもらえたし、またこのような状態でも瞑想にあることができるのだと実際にわかったのが収穫、だとか。
特に後者は、たわしが是とする「動中の静」の実践そのもの。
もしかしたら、それを実感するために、この状態を引き寄せたのかもしれないなーなんて。
とにかく、何かしら物事にはプラスに見ることのできる面があるわけで、それがにょきにょきっと、地面を割って生えてくるみたいに見えてくるんですね。瞑想状態に帰る癖をつけておくと。
そんなわけで、とりとめなさすぎな文章になっちゃいましたが、結局なにが言いたいかっつーと、
瞑想ってのは行為でなく状態のことで、その状態に至るための行為ってのは十人十色千差万別あって、自分に合ったやり方さえも時と場合と自分の在り様によっても変化するので、何もひとつの方法にこだわることないですよーってこと。
むしろ固執しちゃうと、そこから瞑想とはかけ離れた方向にいっちゃうこともありますからね。体験者は語る(ぇー
自由自在にいきましょ。