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バカボンのエンディングテーマで

「♪その日は朝から夜だった」

 で始まるあの歌ありますよね。
 曲名もそのまんまですが。

 実は、かの嘉門達夫たんの歌だって今日始めて知ったってのはまあ内緒として(ぇー

 あれ、ほんとすごいなーと最近になってつくづく思うんですわ。


 だって、歌詞の内容が固定観念無視、
 つきぬけてあるがままなんだもんw



 たとえば、いきなりの「♪その日は朝から夜だった」

 たわし普段午前3時か4時には起きて活動開始するんですけど、
 当然空は真っ暗なわけですよ。
 これ、朝なん? 夜なん?

 まさしく朝から夜だった状態なわけで、
 それって要するに、朝も夜も明確に分けられるもんでもなく、

 朝でもあり夜でもある?
 朝でもなく夜でもない?

 まあ、どっちでもいいじゃん。今日も一日はじまるよー!

 って具合でw



 ほかにも、
「♪だけどウグイスパンにはウグイス入ってない」とか。

 これほんと、そのまんまだよねw

 で、これを聞いて「ホントだウグイス入ってねーじゃんべ、けしからん」
 みたいな否定をサッとはさむ人っているんと思うんですよ。

 だけど歌の中じゃ、ウグイスパンにウグイス入ってないのが悪いなんてひとことも言ってないw




 あともう一つ挙げると、
「♪地球の上に朝が来る
  ね・うし・とら・う・ねこ・パンダ・カメレオン」

 いやほら、なんとなく当たり前のように思ってる人がごろごろいますけど、十二支が子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥でなきゃいけない必然性なんて、実はどこにもないんですよw
 12個でなくちゃいけない理由もないしw



 もうね。
 こんなふうに、徹頭徹尾投げっぱなしジャーマンなんです(ぇー


 昔初めて聞いたときは、ただただナンセンスでお笑いなだけの歌かと思ってたですよ? 正直。

 でもこうして今の段階で改めて聞いてみると、いろんなものが見えてくるもんですね。

 こうでなければならない、ああでなければならない、
 そんな観念を握り締めてたなら、こんな曲を産み出す事なんてそもそもできやしないと思いますわほんと。



 まあ、とにかく面白い良い歌ですw
 聞いたことない人はぜひ。
 


 ナスがママならこの世は天国。



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放逐船員、本日亡命セリ。

ファイル 434-1.jpeg

 只今大絶賛逃走中。

 探さないでくだs

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ストーリー・オブ・ウォーターフィールドサウスノース(5)

 はーいみんあー、おまたせしたよー(何


 とゆーわけで今回は前置きすっとばしてさっさと前回の続き。



 稀代の観相師・水野南北。
 その少年時代の名前は、熊太。

 五歳の時に両親と死別した熊太は、錠前職人である叔父に引き取られ、鍵や錠作りの技術を叩き込まれました。
 ゆえに、チンピラ稼業にいそしんでいたころの通り名が、鍵屋の熊太。


 その熊太が、死を予言された一年を生き長らえ、ついに乗り切ったかに見えたある日。

 熊太に決定的なひとつの「死」を与える人物が、町を歩く彼の前に現れました。


 その人物とは……。


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東西に迷うがゆえに南北あり

「真実は一つしかない」

「真実は無数にある」

「真実しか存在しない」

「真実など存在しない」



 これら全部、実は同じ意味です。

 真実というものを、あたかも東西南北、異なる視点から指し示しただけ。

 わっかるかなぁ?



 さて今日も楽しくいってらっしゃーい(* ̄∇ ̄)ノ

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責任ということ

 黒斎さんとこの極楽飯店が、ついに輪廻中毒にまで話が及んでwktkしてる今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか(何


 うみさんには南北話期待してる言われてるのにアレなんですが、
 アップデートで北米実装したばかりの大航海時代にかまけて筆がノロノロでごぜーますああそこ石を投げるならせめて片手で持てる程度で……( ̄д ̄;)


 でも放置じゃせっかく来ていただいてる方々に申し訳ないので、せっかくなので今回は以前書き溜めたもののお蔵入りしてたやつからお披露目をば。

 てゆーか、前のエントリでちらっと「反応を選択」するって言葉を使って、ふと思い出したのが今回の話題。
 加えて、今日うずらさんに頂いたコメントとも何気に関連することなので、渡りに船というか、そのコメント頂く前からこのエントリをつなぎに公開する予定だったものでなんというシンクロー、ってのが正直な所。

 ただ本音言うと、内容自体すっごい粗があるからホントはこのまま蔵に入れときたいのは山々なんだけどねぇ……それでも何かしらの学びに変える人もいるかもしんないし、ってことで敢えて。

 てかこれ書いたの、タイムスタンプ見たら今年の1月2日かー。
 結構熟成してたもんだ。乳酸菌たっぷり?(ぇー


 そんなわけで、以下その腐敗臭をごゆるりとご堪能ください(ちょ


 ~~~~~


 ……。

 さて。

 唐突ですが、「責任」という言葉がありますね。

 広辞苑によると、

 せき‐にん【責任】
1.[荘子天道] 人が引き受けてなすべき任務。「―を全うする」「―を持つ」「―をとる」
2.政治・道徳・法律などの観点から非難されるべき責(せめ)・科(とが)。法律上の責任は主として対社会的な刑事責任と主として対個人的な民事責任とに大別され、それぞれ一定の制裁を伴う。


 つまり責任とは、為さねばならない何か(英語であればmust)であり、
 またそれを為さないことも含めた何らかの落ち度について罰を科されること。
 そんなふうに解釈されてるわけですね。

 「責任を取れ!」だとか、
 「どう責任取ってくれるんだ!」とか。
 特に他者に向ってこの言葉を使うときは、確かに責め罰するニュアンスが強い印象かな。


 でもこの責任という単語、
 英語ではresponsibilityといいます。

 response - ability で、「反応する能力」という原義。


 どういうことかというと、

「自分がどう反応するかを自分で選ぶこと」

 なんです。



 つまり本当の意味での「責任」とは、

「強制されること」「罰を食らうこと」という受動的・非主体的なものではなく、

「自ら反応を選択すること」という能動的・主体的なものなんです。



 実はですね。

 どんな外部刺激を受けようと、どんな決断を目の前にしようとも、
 誰もが本来、必ず、「反応を選択する能力」を保有しています。



 たとえは渋滞に巻き込まれたとして、

 ある人は、イライラするあまり舌打ちを繰り返し、タバコを何本も消費しながらクラクションを鳴らしまくる。

 ある人は、緊張をといてシートにくつろぎ、スピーカーから流れるお気に入りのジャズに微笑みながら耳を傾ける。


 両者ともに目的地はあります。可能な限り早く着きたい意図もあります。

 現象は何も変わっていません。

 なのに、反応は全く逆です。


 このことは、
「渋滞という現象そのものに、人の反応を直接左右する能力は無い」
 ことを表しています。

 裏を返せば、
「現象に対してどんな反応を示すかは、その自覚の有無にかかわらず、その人自身が完全に決定権と能力を持っている」
 ということ。


 それは他の誰の力でもありません。
 「自分」しか持っていない、絶対無二の力です。


 でも、その力を本当に自分のものとして活用している人は稀です。

 多くは、その力を他の誰か・何かに明け渡してしまっています。


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