常に曖昧に。
斜めアングルで見にくくてもうしわけなす。
写真は福岡県警の募集ポスターなんですが……、
わ、ほんとだよく考えたら全部心が入ってる!
そいえば黒斎さんも、
「『羨む』とは『心病む』」
って言ってましたね。
「心」って辞書引くと、確かに「うら」という読み方も載ってまして。
表のツラ(表面)に対して、裏側のココロ、と。
表裏一体。
つまり心は、現われるんですねぇ。
てなわけで更新滞っとりますが、
ちょっち今いろいろと内面的な変化が生活行動にも大きく影響を及ぼし始めてるようでして、
その虚実を掴み見極めるのに、心身両面でかなりのリソースを割いてる状態でござまする。
時々川´ー`)やら( ^-^)やらとも膝突き合わせて(ぇー
再起動までもちっとお待ちをm(_ _)m
Terraさんも入り込んでるのと同様に、たわしも何やら変革の時期みたい。
(08:15追記)
と、このエントリアップした直後に万年素人さんのブログ見たら、
>従来の行動と同じ行動をとっていては進歩はせん。
>もっともっと手放せ。
>おぬしは大丈夫じゃ。わしが保障する。
ちょ、たわしにも全く同じこと伝えられてて、
しかもまさにそれを具体的な実行に移してる最中なんですがっΣ( ̄д ̄;)
川´ー`)「顎を鍛えるためにたまには固いものを食べよう、というのは、普段よく噛んで食べない人間の世迷言じゃな」
ってな一言を以前唐突に受け取ったんですよ。
で、ちょいと考えて、色々思い至ったことがやっぱりありまして。
いつだったかもう何年も昔。
某少年漫画誌の読み切りで、あるプロ野球のピッチャーの話があったんですよ。
トレーナーに「もし5年後に150km/hを投げたいのならば」と提示されたトレーニングメニューを誠実に受け入れ、実践したそうなんですね。
その内容とは、まず高負荷のウエイトトレーニングを一切しない。
逆に、1kgとか500gとかの極めて軽いウエイトを用いたエクササイズを、長時間に渡って続けるというもの。
自身のチームが優勝し、その祝賀会の最中でも、彼は軽いダンベルを手放さずゆっくりとエクササイズを続けたそうです。
そして5年後本当に150km/hを記録した、というお話。
それと全く逆パターンなんですが。
たわし中学高校の頃過度な筋トレのお陰で肩や内臓を壊した経験がありまして。
おかげで今でも、特定の動作では片方の肩関節に違和感があるです。
「継続は力なり」&「急いては事を仕損じる」って言うでしょ。
咀嚼も、同じだと思うんですよ。
本当によく噛んで食べる人は、どんな食べ物であっても、
柔らかいものも硬いものもその中間のあらゆるものも、
ゆっくり優しく噛んで噛んで噛み締めて噛み抜いて、食べる。
特別に意気込んで力を入れる必要はなく、ただ反復するのみ。
そりゃ硬いものほど力を入れなければいけないこともあるでしょうけど、
それだって水滴岩を穿つ、ゆっくり優しく噛み繰り返せば必ず咀嚼できるようにできてます。
だって、どんなに硬くたって食べ物だもの。
とりあえずは噛み砕かないと如何ともしがたい物も、一旦噛み砕いてしまえばあとは他の食べ物と同じ。
じっくり噛めばいいんです。
がしっと噛もうとするのではなく、力を抜いてただ顎を動かすだけのつもりで。
それのどこが素敵なのかというと。
じわじわと、でも次から次に食材の奥から味が出てくる。
そして、噛むという運動に、無理がない。
そう、無理をすれば続かないですよ。
だって、理が無いんだもの
逆に、無理せず続けていけば、咀嚼癖がついてくる。
そうなればこっちのもん。
なのにですね。
「よく噛むと健康にいいらしいから、たまにゃスルメでも噛んで顎を鍛えるか」
ってな具合に、たまに思い立って硬いものを食べようとする人っていますよね。
たしかに、世迷言なんですよ。
どこがどう世迷言かって、
食べ物をよく噛むことによる健康の獲得というのは、
平素積年の継続の末に、咀嚼によって胃腸への負担軽減が大きく積み重なった結果、
内臓が本来の健全な状態を取り戻し、付随して全身に活力が無駄なく循環するからこそ、なんです。
つまり「顎を鍛える=健康にいい」でも、「顎が丈夫=健康である」でもないんです。
どんなに顎を鍛えても、普段噛まなければ意味がないんです。
普段からよく咀嚼するという習慣が身についているその結果として、顎が鍛えられるというのはあっても。
普段からよく咀嚼して、消化器への負担を最低限に留め置くよう心がけているからこそ、健康に繋るんです。
必要なのは、「噛む力の強さ」ではなく、「咀嚼する癖」なんです。
わざわざ「硬いものを食べよう」なんて思い立つってことは、
要するに、普段よく噛んで食事をしていない、って証拠でしょ。
普段しっかりと咀嚼しているなら、
「健康のために硬いものを噛んで顎を鍛えよう」
だなんて特別に意気込んだりなんてしませんもん。
しかも、見当違いな意気込みを。
川´ー`)「ちょいと待つがよい」
あ、宇意さん。何さいきなり。
川´ー`)「今おぬしが話題にしたのは固い物についてじゃの」
そだね。
健康のためにと称して硬い食材をわざわざ選んだりする必要なんてない、って力説したい。
川´ー`)「ならば、そこで話題をひっくり返してはみんかの?」
ひっくり?
次回に続きマス。
写真は、この前自転車でぶらぶらと、
通ったことのない街路を気ままにあてどなく散策してた時に見つけた寺の掲示板。
今日はちょっと趣向を変えまして。
トップページのRSSリーダー使って、ぶらぶらといつものブログ散策中、
個人的に特にシンクロっぽかったエントリを徒然にご紹介。
■愛の世界で生きている:お弁当を食べる体
ここんとこみんな興味津々な「食」について、詩にしてくださっています。
いやほんと、なんというか……そうなんですよね。
「食」は全部に繋がって、全部もまた「食」に繋がってる。
本当はシームレスなんですよねぇ。
もぐもぐ噛んでると、ただ食感とか味覚とか噛んでくれてる体とか、訪れては流れてく無常で刹那の感覚を、眺めてるだけになる。
そんな時、実は意識の分離感なんてどっかいっちゃってるんですよね。
そして、それは誰しも必ず感じたことがあるはずで……ただそれを認めるか認めないかの違いだけで。
■ありがとう仙人の「心のホームルーム」:クンバハカ法のコツ
いや先日もありがとう仙人さんのおかげでクンバハカ法の感覚がつかめたばかりなんですが、
その掴んだ内容を更にわかりやすく噛み砕いて、解説してくださいました。うん、たわしが掴んだのも(たぶん)仰るとおりの感覚だ!
そうなんですよ、天風師は実際は「下腹に『力を入れる』」って言葉を使ってるんですよ。
たわしが一番誤解してたのは、まさにそこだったんですね。
その誤解を、まあたわしの中ではもう解けた誤解なんですが、ありがとう仙人さんがさらに優しく解きほぐしてくれました。なんというアフターフォロー!(ぇー
ありがとうございますです、とこの場を借りて御礼を。
余談ですが、アクセス解析見てたら「中丹田に意識を集中」って検索ワードでたどり着いた方がいらっしゃったようで。
それを辿ってったら「意守丹田」なる言葉に出会いまして。
クンバハカが腑に落ちてなかったら、これも全く感覚がわからなかったかも。
ていうか、現在進行形で呼吸についてあちらさんから仕込まれてる最中、こちらページも呼吸関連じゃん……誘導されてる!?
■いまここ:幸せと自信
おなじみすぎて紹介するまでもないかもしれんけどw
読んだのは、ponsunさんのブログのコメント欄に書き込ませていただいた後だったんです。
緊張があるからリラックスがある。リラックスが本来の状態で、リラックスしかないのであれば、リラックスという状態概念は存在しない。ってことで。
二元性なんですね。
(まあ、「リラックスが本来」という言い方もバッチリ二元性に基づいてるんですがここじゃそれは置いといてくださ。だって言葉は二元性でしか物事を表せないんだもん)
で、阿部さんがまさしく語っておられる通り、これは幸せについても言えて。
出典は何だったかな、
「天国への一番の近道は、地獄へ至る道を知ることだ」って言葉もあったような。
南北くんでも、
「不幸になる原因を取り除いたら、あとは幸せになる道しかないからな」って書いたばかりだったし。
要は幸せって、不幸でない状態、不幸であることをやめた状態、なんですね。
それが本来だから、本来幸せしかないのであれば、幸せという状態概念は以下略。
だから言うなれば、根本的な領域で幸せになる方法はたった一つ。
不幸であることをやめること。
「不幸とは、例外なく自分の意思で握り締めているもの」
という常識の裏にあるトリックに気づいて、
更にそれが真実であると受け入れない限り(要は煩悩で言う「疑」がある限り)、
人は死ぬまで悲劇の主人公を演じる舞台にハマりつづけるんでしょうね。
『「縁なき衆生」は、愛を以って放っておくべし』
こないだ、そんなことを言われた今日この頃。
河馬は動物園に行けばいると思う。(何
忙しいって字は心を亡くすって書く、ってよく言うけどね。
でも、心をなくすってどういうことだろうね。
それはね、観念にとらわれて心の自由を失う、ってことだよ。
「忙しい」って定義したその状況が、
はたして実は、本当に本質的に「忙しい」のかな?
後付けでしかない、
その「忙しい」という定義・意味付け・評価そのものを、
本質だと誤解したままじゃないのかな?
要はね、
「ああ、この状況が、忙しいという状況なんだ」
という解釈以外の解釈が、できなくなっているってこと。
「状況=忙しい」って観念にとらわれて、
「状況=楽しい」とも、「状況=充実した」とも、「状況=腕がなる」とも、
「=ワクワクする」とも「=気合が入る」とも「=いっそ気持ちいい」とも、
どうとでも把握できるはずの心の自由を、なくしているってこと。
そう指摘されると、
「ううんそんなことないよ? 忙しいけど、楽しかったりもするよ?」
って言うけど、いや、本当にそうなら別にいいんだけどさ。
よーく自問自答してみると、気付く場合があるの。
「楽しい」って意味付けができているのは、実は指摘したその時だけ、って事に。
というか、気付けるならまだ救いがあるから幸い。
全く気付かないで、
もしかすると気付いてるけど目を逸らし続けてるのかもしれないけど、
「状況」の内にいる真っ最中は、
もう無意識的反射的被害者的に「忙しい忙しい」としか思っていないって人、多いよ?
実際そんな人は、何をおいても「忙しい忙しい」とばかり、
呼吸するように口に出すから、すぐわかる。
そして、実はそんな人の方が世間じゃ圧倒的に多数だ、ってことも、
心を空にして観察していれば、すぐわかる。
ちなみに「状況=忙しい」なんて、実は全然、式として成立しない。
一番根っ子の部分で、成立する式は本来、ただひとつ。
「状況=状況」、それのみだよ。
いやもちろん、イコールの右側に何を当てはめてもいいんだよ。
「忙しい」でも「楽しい」でも「気持ちいい」でも、どれを当てはめたって。
ただ、「それしか当てはまらない」のだと「勘違いしている」「縛り付けている」から、
「心の自由」を、あるいは「自由な心」を「亡くして」、「忙しい」んだ。
ま、だから。
他人に向かってなにかと「大変ね、忙しいのねぇ」って言うのも、
「相手が相手自身を実はどう思っていようが、『大変だ』という色眼鏡でしか相手を見ることができていない」
って場合が案外多いから、心当たりのある人は要注意。
もちろんその時、
本当に「忙しい(心の自由がない)」のは、
相手じゃなくて、言ってる当人だね。
なんて事をのたまいつつ、実は、
『「状況=状況」しか当てはまらないんだらよ絶対!』
ってふりかざすのも、しれっと「忙しい」の仲間なんだけどね。
おまけ:ものの見方と見方道