常に曖昧に。
身近な人の死や、死に準じる事態に突然直面したとき、やってはいけない事がひとつある。
それは、驚くことでも、悲しむことでも、悼むことでもなく、
うろたえ、取り乱し、途方に暮れることだ。
「どうしよう。ああ、どうしよう」と。
「突然こんなことになってしまって、これからどうなってしまうんだ! どうすればいいんだ!」と。
有り体に言えば、過去や未来に心を飛ばし、眼前の死と呼ぶ現象から逃避し、
今この瞬間に存在していない状況を妄想し、不安を創造して「遊ぶ」ことだ。
悲しむのは構わない。悼むのは構わない。
むしろそれは、人として断然、あってもよいことだから。
しかし、
「人は必ず死ぬものだ」ということを予め、本当に理解できていれば、
たとえどれほど悲しみに苛まれても、不安という自縄自縛にはまず陥らないし、仮に陥っても短時間で済む。
でも、世の中には、そうでない人もいる。
まだ若く、経験と哲学に乏しいなら話は別だが、
突然の死、あるいは死の宣告を前に、
いい歳をしてただ闇雲に、心を過去や未来に逃がし、遊ばせ続けている人が。
いつまでもいつまでも、ただ不安に嘆き浸り続けるだけの人が。
そんな人に「人は必ず死ぬものだ」と告げると、必ずといっていいほど返ってくる反応がある。
「そんなことはわかってるよ!」
わかっていないから、取り乱すのだ。
もっと正確に言えば、
理屈で理解しても、胆(はら)の底で受け止めていないのだ、
頭で、自我で、思考で「人は必ず死ぬものだ」という「言葉をコレクションしているだけ」で、
覚悟という胆の領域に落とし込む事を、怠ってきたのだ。
そう。
自らの心を修めるという一世一代の大仕事に対する、怠惰の結果だ。
人として生まれた以上、誰一人の例外なく、必ず一度は死ぬ。
その理解の真髄を端的に語った言葉こそが、
「一期一会」
この言葉を飾り棚に収めることなく、
いつでも抜き放てる愛刀として座右に置き続ける剣人(賢人)は、
悲しめども、決して取り乱すことはない。
……。
「今日は死ぬのにもってこいの日」
プエブロインディアンの死生観を綴った詩集で、
記憶が確かなら、かれこれ10年くらい前に入手した一冊です。
(って書いた後で、たわしのアカウントでamazonにログインして上のリンク先見たら、
「2001年2月に購入しました」って表示されてた。記憶違いじゃなかったね)
当時はまだ音楽活動真っ最中の頃、いわゆるペシミズム的な見方しかできなかったこの世界観。
様々な紆余曲折や有形無形の存在との出会いを経て、近頃になって読み返してみると、
大地に根ざして生きてきたネイティブアメリカン達の境地は、まさに悟りそのものだったのだ……と、
それなりに少しは肌で分かるようになってきたようではあります。
それもまた、おかげさまなのだな、と。
仮に今日、自分が死ぬとして。
はたしてその時に周囲の人々が取り乱すのかどうか、
それははっきり言って、その一人一人各自の問題です。
冷たく聞こえるでしょうが、そこまで後生責任抱えてあの世に逝くなんてまっぴらごめんです。
ただただ、放言してしまえばエゴイスティックに。
今では本当に、今日は死ぬのにもってこいの日だと、
一日一度は一瞬でも思うよう、自分に課しています。
そしてその瞬間とは、どのような瞬間かというと、
今この瞬間に、いまここに、意識が完全に集約されている時です。
過去も未来もなく、執着も妄想もなく、全部が空っぽなのに、完全に満たされた心の状態、その瞬間。
(正確には、「あ、その瞬間を迎えてた」という自覚、認識ですね。
その認識・思いの汲み上げ自体には思考を用いるので、
厳密には「その瞬間」とは別物ではあるんですが、それはここでは置いておきます)
それは、自ら命を絶つ事を望むのでは決してなく、
しかし死を憂うことなく、むしろ待ち遠しくもあり、その上で生を全うする覚悟もあり、
何より本来生も死も無く、同時に眩い命の総体という祝福そのものとして、存在するという感触。
ああ、今まさに、生きるために必要な全ては、完全に与えられている。
今まさに、完全に生かされている。
だからこそ今、もしも死が訪れるならば、何の心残りも躊躇いも恐れも無い、と。
そう明確に「わかる」瞬間。
ちなみにその瞬間、
タンスの中のエロゲーの箱やHDD内のエロ画像の処分についてとかもどうでもよくなっていますが何か(ぇぇぇー